「居る人」と「行く人」のための仏教

   

1952年8月9日                                       

  仏教は他の宗教と違って、二種類に、つまり「居る人」のための仏教と「行く人」のための仏教に分類することができます。他の宗教には、世界、あるいはすべてのものに自分があることを超える目標がないので、当然このような分類はできません。仏教は無限に広い自然の原則に則った普遍的な宗教なので、人間が最高レベルまで実践できる、自然が与える限りの完璧な実践規範が揃っています。だから述べたような二種類に分類できる実践規範があります。 

  

まだ居る人のための仏教

 仏教のこの部分は、世俗の幸福や世俗的な発展だけを求めている、まだ俗世の領域の実践規範です。つまり人間あるいは天人、あるいは最も高い梵天界の五欲の幸福です。梵天界は五欲に関わらなくても、まだ心は自我があることに満足し、何かを所有すること、何らかの地位になることに関わっています。

 これらの実践規範は輪廻から出ることができないので「ワッタカーミニパティパター」と言います。生き物に輪廻を回遊させる実践規範という意味で、これらの実践規範に聖人は満足しません。智慧のある人はすべてのものを深く見るので、このレベルの実践項目は唾棄すべきものと見なします。一般の人、あるいは俗人たちのほとんどが、聖人の実践規範を退屈で厭わしく恐ろしいと感じるのと同じです。

 ある在家の人がアーナンダに「アーナンダ様、愛欲を味わい、喜びの元である愛欲があり、愛欲を喜び、愛欲に囲まれていることに満足している私たち在家にとって、愛欲を捨てる実践、つまり愛欲から離れる実践は地獄のように見えます」と告白したことがあります。

 簡単に言うと、在家の人は愛欲に関わらない実践を地獄か底が見えない深い淵のように嫌悪するということです。人間は心のレベルが違えば、お互いに理解あるいは満足することができないことを表しています。ですから彼らのレベルに合った段階的な、独自の実践項目を探求しました。

 まだ能力が低く鋭い智慧のない生き物は、当然自分の知恵、あるいは能力より高い実践項目を理解し満足することは出来なので、自分の能力にふさわしい直接的な実践項目を求め、そして自分の資質と反対のものを「地獄」のように感じます。

 生き物の欲望は三種類、つまり愛欲、有愛、無有愛の三種類あるので、生き物は三種類のものが得られる実践項目を求めました。愛欲に導かれている人、あるいは愛欲の奴隷である人は、人間あるいは天人として、あるいは自分の考えに合った、結果として愛欲をもたらす実践を望みます。

 有愛が顔を出している人、あるいは(体の)家主である人は結果、つまり何らかの所有、あるいは身分である幸福をもたらす実践を望みます。五欲に関わりませんが、高級な欲望に関わるレベルの幸福で、これを特に形梵天という種類の梵天たちの幸福です。何らかの形(つまり体)を感情(心が捉えているものという意味)にする、つまり目などの感覚器官の基盤である「体」がある梵天です。感情に心を集中させ、あるいは静かに安定していれば愛欲に陥ることはありませんが、その禅定の味を愛し満足することは、低い生き物が愛欲を愛し満足するのと同じです。

 無有愛が顔を出している人、あるいは家主である人は、無形梵天と呼ぶ更に高い、より上等な幸福である結果をもたらす実践を求めます。形のあるものを感情にするのは、形のないものより下品という点が違います。短く言えば、形のないものの方が形のあるものより高尚ということです。だから形禅定から得られる幸福より無形禅定から得られる幸福の方が、一段階高い幸福であり、一段階高い静かさです。

 しかしいずれにしても欲望に依存していて、まだそのような静かさの味を愛し、満足しなければならないので、まだ喜びや執着による捕縛の威力から脱すことはできません。心がこのレベルにある人は、苦の基盤である何物も欲しがりませんが、まだ「自分」という執着を捨てることができないので、とりあえず形のないものを何もないこととします。

 この三種は、まだ愛欲や有愛や無有愛のある生き物の実践項目だということが分かります。欲望を消滅させる実践項目ではないので、いろんな界、つまり欲界・形界・無形界の間を回遊しなければならず、世界(俗世)から脱出することはできません。だからこれらの実践項目を「まだ居る人のための実践項目」と呼びます。つまり喜んで世界、あるいは俗の範囲にい続ける、まだ世界を超える目標のない人達のものです。

 この初等のレベルの実践規範は仏教に揃っています。つまりディッタタンマミカタプラヨード「善い行い。正しい行い」です。俗世の初歩的な道徳には三種類の利益があり、財産、名誉、友情という利益が、生きているうちに、つまり現世で得られます。そして高いな道徳である布施、戒、バーヴァナーの主な教えは、来世の善趣のためです。つまり天人界、あるいは形梵天と無形梵天の二種類の梵天界のいずれかに生まれるためです。これらの実践項目は、まだ何らかの世界、まだ生老病死のある世界を輪廻し続けたい人の実践項目です。

 現世でこのような結果を得させるこれらの実践項目を「ディッタダンミカッタパヨージャナ(現法の利益)」と言い、将来の結果を期待するものを「サムパラージカッタパヨージャナ(心の利益)」と言います。望むレベルの違いがあります。いずれにしても、愛欲・有愛・無有愛の三種の欲望は、欲界・形界・無形界の幸福を望ませる原因であり、それぞれ対になっていると知っておかなければなりません。どれもレベルが違うので、互いに他のレベルでは満足できないと言えるかも知れません。

 たとば欲界の幸福に満足している人は当然形界(色界)、あるいは無形界(無色界)の幸福に満足せず、同様に形界、あるいは無形界の幸福に満足している人は当然欲界のような幸福を嫌悪します。

 しかしどんなに落差はあっても、結局は俗世で生死を繰り返さなければならない部類であり、世界から抜け出すことはできません。それは欲望を消滅させられないからです。だからこれらの実践項目、あるいは道徳を、私は「まだ居る人の仏教」と呼びます。そしてこれらを仏教の真の要旨とするべきではありません。なぜなら他の多くの宗教教義と同じであり、ブッダが大悟する以前からあるからです。

  

 「行く人」のための仏教 

 こちらの仏教は、初めから三種類の欲望を消滅させることを目指す実践項目で、何度も生まれる輪廻に倦怠することを狙います。それ以上に幸福に飽き飽きしていて、愛欲や物質に関わらない高級な幸福でも、非常に上品で穏やかな幸福でも、幸福あるいは幸福な自分に満足している状態は、まだ苦の一種という感覚があるからです。

 そのような感覚は非常に緻密な智慧の威力で生じます。簡単に対で比較すると、普通の人は罰を受けることや貧困を苦と感じ、褒美を貰うことや裕福になることを幸福と感じ、これが一対です。しかしもっと心が高い人はお金があることも苦と感じることができ、そして仙人や実践者のように静かに暮すことを幸福と感じます。これも一対です。もっと心が高い人は仙人や行者のような穏やかな幸福もまだ何らかの欲望があるので苦と感じ、欲望あるいは期待が消滅すれば幸福に感じます。これも一対です。      

 述べて来た三種類の渇望は、いずれかの世界に夢中にさせる真犯人で、世界(俗世)から出たがらないのは、世界には欲望が望むものがあるからです。だからそれらの欲望の消滅を目指すことは、世界に囚われない、あるいは世界に生まれないことを目指すことで、目前の話をすれば渇望からの脱出を目指すことです。渇望が消滅すれば、あるいは三種類の渇望の支配下になければ、欲界・形界・無形界のどこで生きていようと、それまでその世界にあった味が、欲望を消滅させた人、あるいは欲望の支配下にない人の心を支配することはできないので、その人の心は世界のすべてから離れていると言うことができます。

 苦は世界にしかないものなので、心が世界のすべてから離れてしまった人を、苦は支配できません。そういう人を「心が世界の外にあり、世界を脱してしまったのですべての苦から(去って)行ってしまった人」と言います。

 このように、人の心が世界より上にあるようにする実践項目を「ヴィワッタカーミニパティパター」と言い、「自分、自分のもの」というすべての執着を無くす部分の仏教です。この種の実践項目の本物あるいは大部分は、この世のすべてのものを「執着する価値はない。執着するべきでない。執着することはできない」と真実のままに見ることで、引き続き本当に正しく明らかに見るために、科学的な規則の実践項目も、哲学的な規則の実践項目でもあります。

 この種の実践者の行動は、布施、戒、サマーディ(三昧)など一般道徳の形の中にあるものもありますが、行動は同じでも目的が違います。たとえば布施は自分への執着をなくす、あるいは自分のものという執着を捨てるため、少なくとも、与えるべきと考える人の利益のためで、幸運や賞賛、あるいは将来天国に生まれることなど、何らかのレベルの五欲の見返りを期待してするのではありません。

 持戒も同じで、自分への執着、あるいは身勝手、あるいは幸福の陶酔を捨てるためにし、少なくともサマーディ(三昧)を生じさせる助けになり、幸運や名誉名声、あるいは何らかのレベルの極楽に生まれるためではありません。

 サマーディに励むのは賞賛、尊敬されたいため、あるいは神通力などの威力を身に付けるため、あるいはサマーディの時の静かで快適な味を望んでではなく、初めに心を支配している、あるいは心の深い感覚を妨害している煩悩を排除して、智慧あるいは最高の洞察を生じさせるためにします。

 智慧、あるいはこの種の人がヴィパッサナー(観)に励むのは、すべてのものに「自分、自分のもの」と執着することの害、つまり苦にし、生老病死があるなど、生き物が「自分、自分のもの」という執着ゆえに受け取っているものを熟慮して見ることです。

 要するにこの部分の仏教は、すべての種類の所有、存在に惑溺することに飽き飽きするための実践です。下等でも上等でも「得ること、なること」に関わらなくなるので、私は「行く人のための仏教」と呼びます。

 いずれにしても「居る人」「行く人」という言葉は、話す時に解かり易いように使うだけの仮の言葉で、この場合の「行く」というのは特別な意味で、ここへ行く、そこへ行くという意味ではなく、輪廻から出る、あるいは下品な苦から、最高に欲しい物と迷わせるほど上品な苦まで、すべての苦の基盤であるあれこれ「得る、なる」という意味のものすべてから離れて行くという意味です。

 本当はまだ最高に上等で上品なレベルの苦です。だから何らかの種類の「得ること、なること」があれば、どんなに上等で高尚でも、「得ること、なること」自体が苦なので、まだ苦であると言わなければなりません。だから得ること、なることから出てしまいたいと望みます。言い方を変えれば、得ること、なることを無くしてしまえば、それが苦の完全な消滅です。

 結局仏教、あるいは仏教の実践は、本当は二種類あります。一つは世界(俗世)にいなければならない、あるいは世界にいることに満足している、あるいは「得ること、なること」の中を回遊している生き物のためのもので、もう一つは命あるいは「得ること、なること」を理解できる心が高い人のためのものです。もっと正しく言えば、何らかの「得ること、なること」に陶酔している心について、明らかな理解があることです。

 仏教にはこのように二種類、あるいは二つのレベルがあると見ればそれまでの疑問は消え、自分と反対側のものを非難し侮辱する原因である誤解も消えます。あるいはローグッタラ(世俗を超える)のレベルの仏教に対する恐怖も消え、暗くて深い淵のように、恐ろしいものだと思わなくなります。

 まだローキヤ(俗世)にいる人は、自分の状況にふさわしい仏教の実践を選んで、自分の心ための階段にし、苦や損失を生じさせるほどの妨害もなくロークッタラ(世界を脱すこと。脱世間)に進むことができます。

 自分は世界にいて俗世の領域で耐えていることを志願し「魚を食えば小骨が刺さる」と言われるような状況になっても、普通より「小骨」を除けることができます。最終的に世俗の何も味わう必用がなくなるまで、すべてに関して「小骨」を除けながら肉を食べることができます。これが「仏教には述べた二種類がある」という知識があること、理解することの結果です。

 


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