清潔・清明・静寂について

 

1952年8月7日

 今日は「清潔・清明・静寂」についてお話します。この三つの言葉は、詳細に周到に熟慮した結果、最もふさわしいと思って規定した言葉で、本当は何と呼んでも良いわけで、いろんな言葉があります。しかし学びやすく理解しやすくするために、そして一般の人も自分で意味を考えられるのでこの言葉にしました。更に短く時間の節約をすれば「三つのS。清潔・清明・静寂」と言い、特別な意味のある「三つのS」です。

 すべてのものよりもっと前からある状態としての三Sについて考える前に、この清潔・清明・静寂という言葉は、それ自体が自然にある特別な「存在」であることについて熟慮します。

 清潔といわれる状態は仮であり、その時不潔にするもの、あるいは曇らすものがないという意味です。しかし本当は、本当の清潔と呼んだり、あるいはどんな呼び方でも断言するべきではありません。清潔という言葉は、不潔という言葉の反対語でしかないからです。普通は清潔なら再び不潔になるので、通常私たちは一時的に仮定した言葉を使っていると見ることができます。

 一方この講義でお話しする「清潔」は、無為の(因と縁によって作り出されない)ものという意味で、無為という点を見れば、何も塗ることができません。何か汚いものを塗り付けても付かずに落ちてしまいます。何も塗りつけることができない無為であるこの状態を、仮の言葉で「清潔」と言います。世俗のもの、特にすべての煩悩は無為の中にはありません。無為は煩悩の基盤ではないので、塗っても付きません。

 「清明」という言葉も同じ無為である状態を仮定した言葉で、何も妨害したり隠したりできない、私たちが見る時の太陽のようにそれ自体が明るく、それ自体が明るく輝いている面の無為です。

 作る原因と縁がなく、どんな原因も縁も作ることができず、あるのは常に明るい輝きだけなので、私は俗世の「清明」という言葉を借りて、そのような無為の状態を呼ぶために使います。「清明。明るさ」と呼び、太陽より、他の何よりも明るい本当の明るさを意味します。

 「静寂」という言葉も同じ無為の一つの状態を意味する仮定の言葉で、動揺したりイライラしたりすることがなく、そして何も動揺させたりイライラさせるものがない状況です。無為であることは、それを作る原因と縁がないこと、あるいはどんな原因も縁も作り出せないので、動揺はなく、波立つことさえありません。

 無為のそのような状態は、私が「静寂」と呼ぶ言葉より高くても、私はこちら側の言葉である「静寂」という言葉を借りて、そのような無為の「存在」を呼ぶのに使います。

 世俗、あるいは有為の面で一般的に見れば、日常使っている「清潔・清明・静寂」という言葉、たとえば清潔な服とか、明るいランプ、静かな波などという言葉の意味は、範囲や時間が狭いか短く、たとえば短い時間だけ汚すものがない清潔、あるいは汚すものがない場所にいる間だけ清潔であって、時と場所が違えば再び不潔になることもあり得ます。

 明るいというのも同じで、限られた範囲内で物質面だけに使われ、心の明るさ、あるいは明らかに知る智慧ではありません。静かさと言われるのは、物質面でドタバタしないこと、あるいは目で見えることだけであって、内面の「火」、つまり煩悩が静まるという意味はありません。だからこれらの静かさは聖人にとって何の意味もありません。しかしこれ以上良い言葉がないので、勉強の意味を持たせるために、これらの言葉を借りて無為の顕著な状態を呼びます。

 だからこの清潔・清明・静寂という三つの言葉は、特別に定義した言葉で、心の面、あるいは宗教面の滅苦を意味する教育体形のための特別な意味があります。

 

 「三S」は、すべてのものより前から自然に存在することができたもの

 三S」は、すべてのものより前から自然に存在することができたものというのは、無為は、それ自体が永遠に存在するものだからです。つまり初めも終わりもなく、いつからあると言うこともできないし、将来いつ頃まであると言うこともできません。何もない宇宙のようにどの方向にも終りが無いという意味です。

無為の在り方と有為のあり方はまったく正反対なので、無為には存在があると言うべきでない、と言う方が正しいです。しかし結局話たり学んだりする基準にするために、こちら側、つまり世俗の「存在」という言葉を借りて、あちら側、つまり無為の話をするしかありません。そうすれば無為の存在、あるいはあり方はああだこうだと話すことができます。

 無為に終りがあれば初めは現れません。つまりいつからあったと言うことはできません。仮定で言うならば、すべてのものが存在する以前からあったと言うことができます。そうならば、無為独自の特徴である清潔・清明・静寂も、あらゆる物よりも前から存在したことになります。

 そして同じように、変化させることができる物は何もないので、この種の清潔は二度と不潔に戻ることはなく、この種の明るさは二度と闇に戻ることはなく、あるいはこの輝きは二度と曇ることはなく、この種の静かさは二度と乱れることはありません。だからこの三つのSは原初から存在し、永遠に変化することなく存在し続けると見なします。

 

 心の中に現れるこてができる「三つのS」

 心あるいは心の感覚が、無為とすべて正反対の有為あるいは世俗であっても、心は無為の特徴である「清潔」「清明「静寂」を感じる、あるいは到達する機会、あるいは能力があります。

 これを簡単に理解するために、世俗の話に譬えると、清潔は不潔な部分を取り除いた時にあり、明るさは隠して暗くしているものを取り去った時にあり、静かさは混乱の原因を取り除いた時にあります。心でも同じで、心を不潔にする、心を暗くする、心に動揺や憤懣を生じさせる原因である煩悩を取り除けば、その心は俗でも、清潔・清明・静寂が心に現れます。

 ここで清潔・清明・静寂が心に現れるのは、どこから来るのかという問題が生じます。つまり外部から来て心に現れるのか、それとも心の中に生じるのかという問題です。この問題はすべての人の問題であり、答えるのが難しい問題でもあります。なぜなら心と呼ぶものは何か、どんな状態をしているのか、どのような仕組みになっているのか、たったこれだけでも答えられないからです。だから問題を狭めて、今心が清潔・清明・静寂の味に触れているかどうかだけにします。

 心が煩悩に包まれ、塗られ、変化させられている状態にあれば、清潔・清明・静寂に出合う機会、あるいは清潔・清明・静寂に触れることから生じる味を味わう機会はありません。心がこれらの煩悩がない状態になれば、この「三つのS」に出合い、三つのSに触れることから生じる味を味わうことができ、凡人でも、本性の中にまだ煩悩があって煩悩の妨害を受けない時は、多少は清潔・清明・静寂に出合うことができます。

 要するに、煩悩が心から完全に、あるいは一時的でも抜け出している時、心はそれなりに三つのSに出合うことができます。扉や窓を開ければきれいな空気や光が入って来て、良い香りも風に乗って来ますが、窓を閉めてしまえばそれらは入って来ないように、たくさん開け、少し開け、長く開け、短く開け、あるいはずっと開け放せば、当然それらのものがそれ相応に入り、自分で行動した分だけ、意図した分だけ得られます。

 心のことも同じで、心を支配しているものを取り除くだけ、あるいは開けるだけはできますが、すべての点で私たちの管轄外にある三Sに触れたり触れないようにしたりすることはできません。だから私は、三つのSは「外部」にあり、心を支配するものがない時に入ってくるものと仮定します。観念の一種として心の中で発生し消滅するものではありません。

 だから三Sは原初から存在するものであり、心で触れることができ、そして心を支配しているものがない時にはいつでも触れることができるものと見ることができます。この項目は、心を支配している煩悩を消滅させれば、あるいは剥ぎ取れば、無為であり、私たちの支配下にない三Sに対して何もしなくても、三Sは自然に心に現れると確信させ、期待させます。

 

 三宝の代りである三つのS

 最も外側のブッダから最も内側のブッダまで順に見ていくと、最も内側の段階に三つのSを見ることができます。子どもは最も外側のブッダ、仏像や、その他のブッダに代わる物質をブッダと捉え、知識のある大人は二千年以上前にインドに生まれたゴータマブッダである、世界的に知られている偉大な人間の一人と捉え、一般の僧はもっと深く、つまり自ら四聖諦を悟った智慧の人という観念で捉えます。そういう観念でブッダを定義するので、どの時代の誰と人物を限定せず、四聖諦を知っている人をすべてブッダと呼びます。

 ここでもう一段深く、心が四聖諦をすべて知れば、つまりすっかり煩悩を消滅させると、望ましい状態である何が生じるのか、あるいは何が重要なのかを考えてみます。

 ブッダあるいは阿羅漢たちの煩悩の消滅を見ると、「四聖諦を知る」という原因で煩悩を消滅させ、煩悩を消滅させた結果は、心に出現した三つのS、つまり本当の清潔、本当の清明、本当の静寂と見ることができます。そして「涅槃の味見」と仮名で呼んでいる味に触れることができます。この三つのSがなければ、煩悩を消滅させることは少しも望ましいものではありません。

 だから煩悩を消滅させることの価値は、仮名で三つのSと呼んでいるものにあり、こうした美徳、清潔・清明・静寂がなければ、ブッダも意味はありません。だから私は、これらの美徳は、般涅槃の時まで常にブッダの心にあると見ます。四聖諦を知ることと、煩悩が消滅することは一瞬でしかなく、八正道で煩悩を消滅させてしまえば、その後は煩悩を消滅する必要がないからです。

 その後ブッダの心には、般涅槃の時まで、私が仮名で清潔・清明・静寂と呼ぶものが満ちています。だから本物のブッダ、あるいはブッダの本質、あるいはブッダの要旨は、この三つのSにあると見なします。

もし掴み出して捨てることができるものなら、ブッダもブッダの意味はありません。ブッダあるいは多くの阿羅漢の心が、常に三つのSに触れているという理由で、私たちはそれらの人々を「世俗を脱した」「ヴィサンカーラ(無為)に達した」、あるいはそのような意味の別の言葉で呼びます。

 プラタム(ブッダの教え)に関しては、阿羅漢の心に現れた三つのSこそ、プラタムと呼ばれるものの要旨、あるいは核心です。仏法の本質はこれらを意味するべきであり、実践ではなく、あるいは声や文字として紙面やニッパ椰子の葉に現れたものを意味するのでもなく、そして儀式やプラタムの代わりの他の物でもありません。ニッパ椰子の葉(経典の古文書)をプラタムと捉えている人を見たことがあると思いますが、それらはすべて間接的な教え、あるいは教えの本質の外皮です。

 教えの本質を深く探れば、実践を生じさせるプラタムを発見します。実践は煩悩を消滅させ、煩悩の消滅は結果的に三つのSを生じさせるので、プラタムと呼ぶものも、三つのSに価値があります。

 僧の場合、何が僧の本質かと問えば、ブッダの捉え方と同じで、誰もが違うレベルのものを僧と捉えていると見ることができます。子どもは黄衣または黄衣をまとっている人なら誰でも僧と捉え、大人は当然ブッダの教えで行動している人を僧と見なし、上級の出家は四聖諦を知っている智慧にふさわしい預流から阿羅漢まで、それぞれのレベルの僧とみなします。つまり本当は、いずれかの段階の煩悩を消滅させることで、結果について言えば清潔・清明・静寂にどれだけ触れたかによりけりです。

だから僧の本質は、それらの聖人の心に現れている清潔・清明・静寂にあると見ることができます。それらが掴み出して捨て去れるものなら、ブッダの例で説明したように、たちまち聖人であることは無意味になります。

 この意味で、三宝の最高に深遠な本質はすべて同じもの、つまり三つのSにあると見ることができます。だから智慧のある人は「三宝は一つだけであり、三種類ではない」と言います。外皮あるいは外面であり、基盤である物質として三つに分けただけです。

 

普遍的宗教の目的と言うことができる三つのS

 以上の理由から、どの宗教であれ、普遍的な宗教の最後の段階の最高の目標は、どの宗教も、自然の真実という点から言っても、すべての宗教の最終目標は、自覚しようとすまいと三つのSであると指摘することができます。

 だからどの宗教も、大なり小なり「清潔・清明・静寂」という結果を出す立場にあり、外側の理由、あるいは環境が何らかの限定をするだけなので、私はここで、三つのSは一つの矛盾もなく、すべての宗教共通の目標であると結論することができます。

 三つのSは無為のもの、つまり何も作り出すものがなく、変化させるものがなく、初めも終わりもなく、限りなく「存在」し、そして実体のあるものであり、いつどこにでも現われ、物理的にも現われ、あるいは宇宙のどこにでもあると言うことができます。

精神面でも、心でいつでも触れられる状態のもので、それは心を無限で最高の状態に至らせ、あるいは入らせ、あるいは到達させ、すべてのものより限界がなく、すべての宗教の目標と同じで、特に仏教では、もっとも広く集約した言葉である三宝の目標です。

 清潔・清明・静寂はすべての代表であり、私たちに表れるすべてのもの、物質にも抽象にも、例外なくあらゆる物に分類あるいは拡大できると定義することができます。

 


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