終章 縁起の特別な価値






       因果の法則:縁起の要旨

  これがあれば、当然これがある。

  これが生じたから、これが生じた。


  これが無ければ、当然これは無い。

  これが消滅したから、これが消滅する。

中部マッジマバンナーサ 13巻355頁371項
相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項







縁起は動物・人・自分・他人がいない話

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ16巻15頁32項

 モリヤパッグナ比丘が「猊下。当然識食を食べる人は誰ですか。猊下」と質問しました。

 それは問題にするべきでない問題です。私は当然「人物が当然食べます」と、このように述べません。私が「人物が当然食べます」と、このように述べれば、それは「では、誰が当然(識食を)食べるのですか」と、このように質問しなければならない問題になります。だから私はそのように言いません。

 そう言わない私に、「猊下。識食は当然何のためにあるのですか」と、誰かがこのように質問するなら、それは問題であることにふさわしい問題になります。その問題の答えは、当然「識食は、当然次の有の発生のためにあります。ブータ(有であること)があれば六処が当然あり、六処が縁で触があります」とこのようであるべきです。

 「猊下。では誰が、当然触れるのですか、猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。私は当然「人物が当然触れます」と、このように言いません。もし私が「人物が当然触れます」と言えば、それは「では誰が、当然触れるのですか、猊下」と、このように質問すべき問題になります。だから私はそのように言いません。

 そのように言わない私に、誰かが「何が縁で触があるのですか、猊下」と質問するなら、それは問題であることにふさわしい問題になります。その問題の答えは、当然「六処が縁で、触があり、触が縁で受があります」とこのようであるべきです。

 「猊下。では誰が、当然感情を感じるのですか、猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。私は当然「人物が当然感情を感じます」と、このように言いません。もし私が「人物が当然感情を感じます」と言えば、それは「では誰が当然感情を感じるのですか、猊下」と、このように質問すべき問題になります。だから私はそのように言いません。

 そのように言わない私に、誰かが「何が縁で受があるのですか、猊下」と質問するなら、それは問題であることにふさわしい問題になります。その問題の答えは、当然「触が縁で、受があり、受が縁で欲があります」とこのようであるべきです。

 「猊下。では誰が、当然欲しがるのですか、猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。私は当然「人物が当然欲しがります」と、このように言いません。もし私が「人物が当然欲しがります」と言えば、それは「では誰が、当然欲しがるのですか、猊下」と、このように質問すべき問題になります。だから私はそのように述べません。

 そのように言わない私に、誰かが「何が縁で欲がありますか、猊下」と質問するなら、それは問題であることにふさわしい問題になります。その問題の答えは、当然「受が縁で欲があり、欲が縁で取があります」とこのようであるべきです。

 「猊下。では誰が、当然執着するのですか、猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。私は当然「人物が当然執着します」と、このように言いません。もし私が「人物が当然執着します」と言えば、それは「では誰が、当然執着するのですか、猊下」と、このように質問すべき問題になります。

 だから私はそのように言いません。そのように言わない私に誰かが、「執着は、何が縁ですか、猊下」と質問するなら、それは問題であることにふさわしい問題になります。その問題の答えは、当然「欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。

 苦の山のすべての発生は当然このような様相であります」とこのようであるべきです。

 パッグナさん。六つの触の発生源が残らず消滅することで触の消滅があり、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みがすべて消滅します。

 苦の山の消滅は、当然このような様相であります。





縁起の終りは有の終り

ネランジャラー川岸に近い菩提樹の下で
小部ウダーナヴァッガ 25巻121頁84項

 その時世尊は、七日間ものサマーディから出られて、仏眼で世界を調べられ、いろんな困難であくせくし、貪りや怒りや愚かさから生じたいろんな焦燥でイライラしている動物の群れをご覧になりました。これを感じられ、次のように嘆じられました。

・ 目隠しする触があるから、この世界の動物に困窮が生じ、当然その病気を自分の物と言う。 

・ 彼が何かを「このようだ」と理解していても、それは当然、彼が理解しているようではない。

・ 有に関わっている世界の動物は有に目隠しされ(註1)、(現実と違う)別の有があるので、その有に非常に夢中になる。

・ 彼が何に陶酔しても、それは危険であり、それを恐れるので苦になる。

・ 人がこの梵行を行うのは、有を捨ててなくすため。

・ 「有からの解脱は有ゆえにある」と言うサマナあるいはバラモンは誰でも、私は、そのすべてのサマナは有から解脱した人ではないと言う。

・ 「有から出ることは無有(註2)ゆえにある」と言うサマナあるいはバラモンは誰でも、私はそのすべてのサマナは、有を捨てることができないと言う。

・ 苦はすべてのウパディに依存して生じる。

・ 苦の発生がないのは、すべての取が終わるから。

・この世界をご覧なさい。厚い無明に目隠しされ、そして住んだことがある有を喜ぶすべての動物は、当然有から解脱できる人ではない。

・すべての利益のために、すべての場所、すべての時間で経過するすべての有(註3)のどれでも、その有のすべては無常であり、苦であり、当たり前に変化する。

・ 人がその項目を、このように正しい智慧で真実のままに見ていれば、彼は当然有欲を捨てることができ、無有欲にも夢中にならない。

・ すべての欲を残らず吐き出したことによる消滅、それが涅槃。

・ 新しい有は当然、執着しないで完全に冷えた人であるその比丘にはない。

・ その比丘は悪魔を支配できた人で、戦いに勝った人で、すべての有を越えることができた人で、変化しない人だ。

註1: 「触が目隠しする」とは、その人が何らかの触に触れると、心全体がその触に執着し、髪の毛が山を隠すように、どんなに大きな物でも、他の物が見えなくなるという意味です。彼はその触の味だけに夢中になるので、他の物が見えません。こういうのを「触が目隠しする」、つまり彼の目を塞いで、いろんな物を真実でなく見えるようにすると言います。

註2: 「ヴィバヴァ」という言葉は有の反対で、断見や虚無論の威力による有がなく、つまり因果の法則になりません。だから、彼が何もないと感じても、無有欲の基盤である無有と呼ぶ類の有として存在します。

註3: 「すべての利益のために」すべての場所、すべての時間でと言うのは、有の執着の基盤である価値で、どんな存在でも、当然ふさわしい時、ふさわしい場所、愛らしい利益に関わっているので、執着の基盤になります。あるいは誘惑して執着させます。だからどんな種類の有も、当然この三つに関わりがあり、結局このブッダのウダーナ(感嘆)にあるように、無常であり、苦であり、当たり前に変化する物にすぎません。

註: 学習者は、ブッダが大悟されたばかりで、菩提樹の周辺で解脱の幸福を味わっておられた時、時には縁起を振り返って熟慮され、時には縁起で経過する動物の群れを明らかに熟慮された結果、この詠嘆をなさったと観察して見なければなりません。触が触れた時に触に目隠しされることが、有を生じさせる縁起の出発点であり、いろんな有に惑溺する結果苦が生じて、恐れなどがあると説明しています。

 その人はすべての物を真実と反対に知っているので、「彼は当然、それらの自然が本当にあるのとは違うように知り、理解し、当然見える」と言います。これをその人の無明と言い、触と組み合わせて無明触と言います。第四章の六番目「無明触は縁起の本当の始まり」で述べているように、縁起の発端です。





意図する人がなくても、ダンマはダンマに流れて行く

増支部ダサカニパータ 24巻336頁209項

 比丘のみなさん。完璧な戒があれば、「アヴィパティサーラ(悔恨がないこと)が私に現れるように」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。完璧な戒があれば、悔恨がないのは当たり前です。

 比丘のみなさん。悔恨がなければ、「歓喜よ生じろ」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。悔恨がなければ、歓喜が当然生じるのは当たり前です。

 比丘のみなさん。歓喜すれば、「喜悦よ生じろ」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。歓喜すれば、喜悦が当然生じるのは当たり前です。

 比丘のみなさん。心に喜悦があれば、「体よ静まれ」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。喜悦があれば、体が当然静まるのは当たり前です。

 比丘のみなさん。体が静まれば、「幸福を味わおう」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。体が静まれば、当然幸福を味わうのは当たり前です。

 比丘のみなさん。幸福があれば、「心が安定してサマーディになれ」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。幸福があれば、当然心が静まってサマーディになるのは当たり前です。

 比丘のみなさん。心が安定してサマーディになれば、「真実のままに知るよう、見えるよう」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。心が安定してサマーディになれば、当然真実のままに見えるのは当たり前です。

 比丘のみなさん。真実のままに知り、見れば、「倦怠しよう」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。真実のままに知り、見れば、当然倦怠するのは当たり前です。

 比丘のみなさん。倦怠すれば、「欲情を緩めよう」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。倦怠すれば、当然欲情が緩むのは当たり前です。

 比丘のみなさん。心の欲情が緩めば、「解脱智見を明らかにしよう」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。心の欲情が緩めば、当然解脱智見を明らかにするのは当たり前です。

 比丘のみなさん。このような状況で、ヴィラーガ(離欲)には当然目指す功徳である解脱智見があり、ニッピダー(厭離)には、当然目指す功徳である離欲があり、解脱智見には、当然目指す利益である厭離があり、

サマーディには、当然目指す利益である解脱智見があり、スッカ(幸福)には、当然目指す利益であるサマーディがあり、パッサッティ(軽安)には、当然目指す利益である幸福があり、ピーティ(喜悦)には、当然目指す利益である軽安があり、

パモーダヤ(歓喜)には、当然目指す利益である喜悦があり、無悔恨には、当然目指す利益である歓喜があり、善である戒には、当然目指す利益である無悔恨があります。

 比丘のみなさん。このように、ダンマは当然ダンマに流れて行き、ダンマは当然、岸でない所(輪廻)から岸(涅槃)に到達するためにダンマを満たします。

註: 学習者は、私たちは行動を正しくしようと意図するだけで、その行動が結果を出すよう意図する必要はないと観察して見なければなりません。

 それ(意図すること、あるいは期待)はイライラそわそわする物であり、無用な苦もあります。ほとんどの人がこの点を誤解しているので、苦に耐えながら仕事をし、あるいは精神の病気になります。

 この教えは世俗のことにもダンマのことにも応用できます。縁起の流れの結果を生じさせる原因にも、このような巌とした教えがあります。





ブッダも縁起を復唱された

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻111頁163項

 世尊がある隠遁所に滞在なさっている時、この様式のダンマを独白なさいました。

 目と形に依存して眼識が生じる。三つのダンマの会合が触だ。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って生じる。苦の山の発生は、当然このようにある。

 耳と声に依存して耳識が生じる。三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触だ。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って生じる。苦の山の発生は、当然このようにある。

 鼻と臭いに依存して鼻識が生じる。三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触だ。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って生じる。苦の山の発生は、当然このようにある。

 舌と味に依存して舌識が生じる。三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触だ。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って生じる。苦の山の発生は、当然このようにある。

 体と接触に依存して身識が生じる。三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触だ。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って生じる。苦の山の発生は、当然このようにある。

 心と想念に依存して意識が生じる。三つのダンマ(心+想念+意識)の会合が触だ。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有(または三界)が縁で生が生じ、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って生じる。苦の山の発生は、当然このようにある。


反対の意味

 目と形に依存して眼識が生じる。三つのダンマの会合が触だ。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じる。欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って消滅する。苦の山の消滅は、当然このようにある。

 耳と声に依存して耳識が生じる。三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触だ。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じる。欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って消滅する。苦の山の消滅は、当然このようにある。

 鼻と臭いに依存して鼻識が生じる。三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触だ。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じる。欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って消滅する。苦の山の消滅は、当然このようにある。

 舌と味に依存して舌識が生じる。三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触だ。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じる。欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って消滅する。苦の山の消滅は、当然このようにある。

 体と接触に依存して身識が生じる。三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触だ。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じる。欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って消滅する。苦の山の消滅は、当然このようにある。

 心と想念に依存して意識が生じる。三つのダンマ(心+想念+意識)の会合が触だ。触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じる。欲が残らず消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂いすべての悩みが揃って消滅する。苦の山の消滅は、当然このようにある。

 その時一人の比丘が、隠れてそれを聞いていました。世尊はその比丘に視線を投げられて言われました。「比丘。あなたはこの様式のダンマを聞きましたね」と言われました。

 「はい、聞かせていただきました、猊下」。

 比丘。このダンマを受け取りなさい。比丘。このダンマを学びなさい。比丘。このダンマを維持なさい。比丘。このダンマは利益があり、梵行の初めです。

註: 現代人が一人で歌の練習をするように、ブッダが独言で縁起を繰り返し復唱なさった話である経を、私はこの経以外に見たことがありません。この経にあるように、暇な時一人で暗唱なさったこと、勉強するよう比丘を諭されたこと、これは梵行の初めと規定さなったことの三つの理由で、縁起は最高に誉れ高い話です。

 そして相応部カンダヴァーラヴァッガの「ダンマが見える人は如来が見える。如来が見える人はダンマが見える」27巻247頁216項に例えて、「縁起が見える人はダンマが見える。ダンマが見える人は縁起が見える」マハーハッティパドーパマスッタ 12巻359頁346項:と言われ、縁起とご自身を同じ価値と見られています。

 だから縁起の話は、仏教の核心にふさわしい最高に誉れ高い話と見なします。しかし反対に、関心のある人が最も少ない話です。だから「縁起を勉強するよう勧められる」「縁起は六処に刺激がある時にある」「縁起は梵行の初め」「縁起を学ぶよう弟子を諭された」「ブッダでさえ縁起を暗唱された」という題で、この経の要旨を五回引用しています。





縁起の話は仏教教団員が結集して確認すべき物に含まれる

ブッダの言葉を引用したサーリプッタの言葉
サンギーティスッタ
長部パーティヴァッガ 11巻226頁227項他

 ご年配のみなさん。知る人、見える人であり、阿羅漢サンマーサンブッダである世尊が善く話されたこの二つのダンマがあります。

 すべての教団員(比丘・比丘尼・清信士・清信女)は、この二つのダンマをサンギーティ(つまり審問して、全員の理解が一致した物にし、確実に記憶するために暗唱すること)すべきで、この二つのダンマで言い争うべきではありません。

 この梵行(宗教)で、長く盤石に維持すべきで、それは必ずや多くの大衆の支援と幸福のため、世界愛護するため、天人とすべての人間の支援と幸福のためになります。二つのダンマとは何でしょうか。

 ・六処に賢い人であること(アーヤタナクサラター)

 ・縁起に賢い人であること(パティッチャサムッパバーダクサラター)です。

 ご年配のみなさん。これが、知る人、見える人、阿羅漢サンマーサンブッダである世尊が良く話された二つのダンマです。すべての教団員は、この二つのダンマをサンギーティ(つまり理解が一致した物になるまで審問して、確実に記憶するために暗唱する)するべきで、その二つにダンマで論争すべきではありません。

 この梵行(品行という意味)で、長く盤石に維持するべきで、これは必ず多くの大衆の支援と幸福のため、世界を愛護するため、天人とすべての人間の支援と幸福のためになります。

註: 学習者は、「六処に賢いとは、縁起の基盤である物に賢いということ、そして六処を管理することに賢ければ、縁起の発生を抑えられることで、二つは分かち難く関わっている。そして実践面での仏教の本当の心臓部と見なす」と、明らかに理解できるまで観察して見なければなりません。

訳注: サンギーティという言葉は、日本語では「結集」、つまり「集まること」と訳されていますが、ターン・プッタタートの説明では、審問して、全員の理解が一致した物にし、確実に記憶するために暗唱することです。(つまり集会することでなく確認作業)





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