カンマを超えた超人プッタタート

                         テレビ番組「コム チャット ルック」2006年5月12日放映

 

司会者(ティーラ タンパイブン) : こん晩は。今日はウィサーカ祭(ブッダの誕生、大悟、涅槃を祝う日)で、タイでは宗教上大切な日ですが、今月は、タイの仏教で重要な日がもう一日あります。来る五月二十七日はターン・プッタタートの生誕百年を祝う日なので、この機会に「コム チャット ルック(テレビ番組の名前。鋭く、ズバリと、深く、という意味)」ではターン・プッタタートの教えを学び、その解釈をしてみます。

 政治的にも経済的にも危機に瀕している今、教えのどのような項目、どのような教えを応用できるかを、ターン・プッタタートの身近におられた方、ターン・プッタタートの仕事を長く勉強していらっしゃる方の目を通して、ターン・プッタタートの視点に近づきたいと思います。

 本日の出席者は、私の隣がスアンケオ寺の住職である「プラ・ラーチャタムニテート」さんです。こん晩は、和尚さん。

プラ・パヨム(プラ・ラーチャタムニテート):こん晩は。

司会者 :次がターン・プッタタートの仕事を熱心に勉強して来られた「プラ・マハーウティチャイ ワチラメーティ」または「ウォー ワチラメーティ」さんです。こん晩は。

プラ・ウォー :こん晩は。

司会者 :次もターン・プッタタートの仕事を熱心に勉強なさっていて、ターン・プッタタートの本を多数出版している出版社「スッカパーブチャイ」のオーナーでもある、バンチャー チャロームチャイキットさんです。こん晩は。

バンチャー :こん晩は。

司会者 :次はスッカパーブチャイの役員であるチョンランシー チャロームチャイキットさんです。こん晩は。

チョンランシー :こん晩は。

司会者 :初めに和尚さんにお尋ねします。つい先日タクシン首相がターン・プッタタートの文章について発言していました。「人が棒で犬を突つくと、犬は棒の先に噛みつく。それは末端だけの解決である。もしトラを突つけば、トラは棒で突ついている人間に噛みつく。根本的な解決である」というものですが、これはターン・プッタタートの何を言おうとしているのでしょうか。

プラ・パヨム :それは、問題の根源を解決する努力をする、ということだ。末端に囚われていてはいけない。そうすると、今日争いが絶えないように、尽きることなく論争が続く。根本的な原因とは、欲望と執着で、自分は勝者でなければならないと執着すること。犬を突つくのと同じで、休まず突ついていれば、噛みつき合いは終わらない。棒は何もしない。何でも原因を解決すれば、それで終わりになると、物事の原因を見せている。

司会者 :原因を解決するとは、トラのように人間に噛みつくことですね。棒で突ついている人間に噛みつけば、原因を解決することになるんですね。

プラ・パヨム :そうだ。人が手に取って突つかなければ、棒は何もしない。トラの方が犬より良く知っていて、犬より賢い。

司会者 :そうですね。バンチャーさんどうぞ。

バンチャー :私の考え方で少し解釈させてください。この場合、トラが人を噛むというのは、仏教の教えである四聖諦、原因を解決するという意味であるばかりでなく、もう一つ、仏教の重要な意味は、自分を見ること、仏教は、他人を見ないで自分を見ることを教えています。プラ・パヨムさんが教えてらっしゃるように、他人を指差して他人の過ちや欠点を指摘していると、他の三本、あるいは四本の指は、知らずに自分を指しています。だから自分を見ることは仏教の教えです。

司会者 :バンチャーさん、このトラと犬の話を少し説明していただけますか。

バンチャー :師は物事の原因を解決するよう教えているのだと思います。仏教でいう原因解決とは、四聖諦の教えを使うことです。人生は苦であり絶えがたいものなので、苦の原因、つまり「集」を知って、そして苦を無くす道、つまり「滅」と「八正道」、この八正道が解決法です。庶民の生活の問題解決から涅槃までの、すべての問題解決法です。

司会者 :ウォーさん、私たちが問題に直面した時、その問題を良く知って、それから末端ではなく、根原を解決すると教えているのでしょうか。

プラ・ウォー :これは四聖諦の講義のようですね。記憶違いでなければ、プッタタ−ト師は、トラと犬の二種類の動物を通して、二つの解決法を示しています。犬は問題解決をする時、問題の上辺だけ、表面的な解決をし、見える部分だけの解決です。しかしトラが問題解決をすれば、表面的な現象には関心を示さず、根源に注目します。プッタタート師がおっしゃっているように、現象も一部分ではありますが、それは一時的な幻影でしかありません。

原因とは根源のことです。現象と本当の原因という言葉は、四聖諦から持って来ています。普通の人が問題に直面すると、問題、つまり苦にばかり注目します。苦は明確に見え、空腹になると顔が青白くなって目が空ろになります。これは明らかに見える現象です。しかし空腹が解決されれば、嗅ぎ薬を使わなくても済むので、食べなければなりません。その原因を探さなければなりません。

 問題がある時、その問題点だけを解決しないで、問題の原因を解決しなければなりません。これが、師が伝えたかった本当の要旨です。だから、トラのように原因を解決しなさい、現象にだけ関心を示して、噛み合う犬のようにしてはいけないと言っています。

 だからこの考え方でタイ社会を見れば、最近は、何か問題があると、タイ人は非常に関心を示し、つまりタイ人は、何でも現象、あるいは流れだけに興味がありますが、なぜ興味があるのかと深く考えることはないと分かります。タイ人は「何」にだけ興味があり、「どうして」にはあまり興味がありません。

 これが四聖諦、あるいは聖諦のレベルの考え方、問題の見方です。

司会者 :人に教えるために「プッタタートの教え」を引用して説教するのは簡単ですが、良く考えて見ると、言っている人、教え好きなその人自身が、問題の張本人だったりします。ウォーさんがこのような場面に遭遇したら、「あんたが問題の張本人だ」と、どう伝えますか。

プラ・ウォー :私だったら多分こう言います。「あなたがターン・プッタタートの言葉を引用するなら、『教えたとおりにしないで、後で泣きついて来るな』と言っていたのを忘れないように」と。ターン・プッタタートは常々、はっきり言っておられました。『引用だけ上手では困るよ。行動が伴わないと』と。

 今私たちは、よくターン・プッタタートの言葉を引用します。なぜ引用するのかと言えば、多くの人は、一つには格好良く見えるから、二つめはダライラマやティック ナット ハンと並ぶ世界の偉大な精神面のブランドだからで、知識者たちの間で格好良く見せたかったら、ターン・プッタタートの言葉を引用します。彼らの世界では非常によく引用されます。

 私は昨日までアメリカに行っていたのですが、ハーヴァードでもプッタッタートの生誕を祝う催しがありました。だからアメリカへ行ったら、ダライラマのことを話し、プッタタートのことを話せば、現代的で格好良く、レベルが高いと見られます。

プラ・パヨム :自慢たらしくな。

プラ・ウォー :自分を偉く見せます。

プラ・パヨム :学歴を高く見せようと。

プラ・ウォー :現在のタイでは、何かの時や会談する時、お偉方はよく、プッタタート師の言葉を引用しますが、行動はというと、別問題です。だから私は師の「教えたようにしないで、後で泣きついてこないで」という言葉を、しょっちゅう言っています。師の言葉を引用するのが好きな人に対する良い忠告になるかもしれません。

司会者 :そういう人は多いですか。

プラ・ウォー :私が見たところでは多いですね。いろんな年代の人がいますが、誰とは言いません。

司会者 :チョンランシーさん。ターン・プッタタートの仕事を勉強なさっている若い人の立場で、同世代の人が、なぜターン・プッタタートが残した仕事を勉強しているの、仏教にとってどう重要なの、と聞かれたら、チョンランシーさんはどう答えますか。

チョンランシー :私は、まだターン・プッタタートの勉強を始めて何年にもなりません。つまり会社で原稿を読んだり構想を練ったりで、その前は、会社で仕事をすることで、日常的にタンマに触れていました。両親や目上の人を見て、常に師のタンマに触れていたと感じます。穏やかでいることや、正しい生き方をするうえで役に立ちます。

友達の多くはまだ、なぜタンマの本を読むのかが分からず、古臭いとか、お寺へ行くのは退屈だとか言いますが、私の感覚では、お寺へ行くことはつまらなくはなく、お寺へ行って何を得るかを知ることだと思います。正しく、明らかに、真っ直ぐに受け取れば、お寺は利益があると分かります。

ターン・プッタタートは、パーリ語をそのまま使わないで、噛み砕いてぴったりした簡潔な言葉にするので、理解しやすいです。師の言葉はしゃれていますよね。たくさんの人が「俺、俺のもの」や「強く捉えれば噛まれる」というような言い方を引用します。深いですよね。若い人の言葉で言えば「チョー 大胆」かもしれません。

司会者 :和尚さん、ターン・プッタタートと言ったら何を思い出されますか。

プラ・パヨム :考え方、つまり騙され易くない考え方を思い出すね。師が生まれた時代は、霊験に夢中になり、儀式に傾倒するアーチャンがたくさんいて、出家者の生活は儀式で壊滅状態になっていた。夜間、森などへ行って瞑想をしなければならず、それで解脱したかと聞けば、物、土、石灰、煉瓦、石、瓦などだ。しかしターン・プッタタートは、一晩中、黙々と本を書いていた。私たちがその後考えられるように、考察を加えた教えを書いていた。

 これは不可解だった。当時は、他の一般のアーチャンたちと同じことをしない型破りな僧など、考えられなかった。儀式に溺れる必要もなく、祈祷をする必要もなく、本当の中身だけ、はっきりした教えだけを、教える教えにした。師の人生は教えることだけにあった。プッタタートという言葉はブッダに仕えるという意味で、ブッダの仕事に仕えることを表明する人など、簡単に現れるものではない。

司会者 :和尚さんが良く憶えておられて、素晴らしいと思う教えはどんなものですか。

プラ・パヨム :気に入らないもの、意にそわず反抗して、後になって認めたものを言う方がいいだろう。。

司会者 :初めは受け入れられなかったんですね。

プラ・パヨム :反抗して受け入れなかった。それは「働くことはタンマの実践」

司会者 :働くことはタンマの実践ですか。

プラ・パヨム :私は初めは、仕事を辞めたと考えていた。工事や庭師、工業の仕事などを辞めて、修行をするために出家したのに、師はどうしてもう一度仕事に戻るのだと、内心で抵抗していた。これはおかしい。仕事は何年もしてきたが、聖果に達するとも、素晴らしいこととも思えない。貪欲だけ。仕事に対する欲望しかない、とな。

 師は反対に「働くことはタンマの実践」と言った。仕事を続けていくと、仕事が好きでなければ働けないと、認めざるを得なかった。怠け心に支配されれば、勤勉さや真面目さがなくなるから働けない。それに働く時サティが悪いと、当時は良く事故があった。サティが悪くて自覚がなければ、いつも混乱するので、仕事をしている時はサティを維持しなければならず、ぼんやりしてはいられない。

サティを滅ぼす水を飲まないで、働ける状態でいなければならない。もし説教をする前に酔う水を飲んだら、説教などできはしない。きっとめちゃめちゃになる。重要なのは、仕事をきちんとするためには、サティを完璧にしなければならないという点で、ブッダに仕える仕事なら尚更、サティが悪ければ失敗して損失も大きい。

 そして働いている時は最高に専心して、どうしたら人々にとって、社会にとってよい結果になるか、失敗しないか、智慧で熟慮すれば良い結果になる。信仰心と努力とサティとサマーディと智慧が必用なのは、実践規範と同じだ。

 それに、汗で身勝手を消滅させる、偉大な利益がある。だから私は朝から晩まで働いて来た。人から「体を労わってください」と言われるほどな。

司会者 :しかしもう一面の、タンマの実践は。

プラ・パヨム :そう。他人のために、他人を快適にするためにと考える時。お経には次のような文がある。「阿羅漢の方たちはじっと無駄には過ごせない。ただ見過ごすことはできない。心には悲(他人の苦を除いてやりたいと思う気持)が溢れているから、人を救いたいと願っている」

 私が毎日働くのは、人々が気の毒だからで、福祉の仕事をしているのは、人々を気の毒に思うからだ。教えを広めるのは、彼らはタンマを知らないために苦労をしているからだ。王様の言葉を借りると、経済が十分でないのは、道徳が十分でないよりましだ、ということだ。

ある政党は、政治資金が何億もあり、票の基盤が千九百万もあり、医師や教授もいて、前の世代が土地を掻き集めたので上機嫌で、政権を維持し続けるには十分だと思ったのに、どうして沈没してしまったのだろう。人は責めるばかり。原告側も責めたてるだけで、原告側は、どれだけ徳があったかも知らないで法律を振りまわすので、論争になるばかりだ。

国を治められる道徳がない。徳が足りない。聖なる徳が足りないから沈んでしまうんだな。結局国家にとって、道徳に欠けるほどの危機はないということだ。だからプッタタート師は、道徳を取り戻すべきだ、「道徳が戻らなければ世界の破滅」と言っている。そして次のような言葉がある。

   国を治めたい、世界を治めたいと揺れている

   他人を思いやる人など誰もいない

   人々の中に道徳よ戻れ

   危機に瀕するその前に

 これが、師が一番力を入れていたことだ。師のあり方はブッダに仕える人、ブッダの仕事に報いて仕事を引き受ける人だ。だからプッタタートと名乗った。普通の人は子供に仕え、女房に仕え、会社や団体に仕えている。

司会者 :そうですね。(笑)

プラ・パヨム :まあ、そんなところだ。師はブッダに仕えていた。

司会者 :ターン・プッタタートの教えにはいろんな教えといろんな項目があります。和尚さんが見て、現代には時代遅れで古臭くて、あまり向いてないと思えるのはありますか。昔は良かったかもしれないけど現代には合わないようなものは。

プラ・パヨム :そういう訳ではない。間違った解釈をするから、今教えるのは良くない、そう教えるのは駄目と言うだけだ。サリット陸軍元帥が「サンドーサ(知足)を教えるべきでない。人々が働かなくなる」と言ったことがあったが、サンドーサは、努力とか勤勉といった問題より上にある教えだ。

 初めに勤勉努力を教えて、必用で十分なだけ揃ったら、そこでサンドーサを知って義務をするべきだ。際限なく求めて掻き集めるのではなく、自分の分は十分あるのに、他人のものまで欲しがらないこと。サンドーサとは働かなくても良いなどと言っているのではない。「自分のものに満足し、他人のものを欲しがるな」という意味だ。

 配偶者、女房に関するサンドーサは、自分の連れ合いに満足しなさい、他人のものを欲しがってはいけないということ。他人のものを欲しがるのは勤勉とは違う。サリット元帥の時代には国を発展させたかったから、「あるもので満足する」ということを教えられては困ったわけだ。

司会者 :間違った解釈ですね。

プラ・パヨム :そう。間違った解釈をして、プッタタート師に「教えるな」と言った訳だ。しかし師は一向に止めようとしなかったので、治安維持警察官を派遣して常に監視させたが、その監視役の警官が師の教えを気に入ってしまい、師のもとで出家して、その後ずっと弟子になってしまった。

司会者 :ウォーさん、ターン・プッタタートの仕事を勉強なさってこられましたが、ターン・プッタタートと言えば何を思い浮かべますか。

プラ・ウォー :師の型破りなことですね。

司会者 :型破りですか。

プラ・ウォー :師が残した書簡で、私は頑固な子供だったと告白しています。今和尚さんがお話しくださったように、サンドーサを教えるなという人がいても、私は教える、と言って、師は教えました。ある偉いお坊さんがプッタタート師を呼んで、あなたは空のようなローグッタラタム(解脱するための教え。出世間法)を教えているが、教えるべきではない、庶民にはふさわしくない、と言いました。ところがスアンモークに戻ると、再び教え、前よりもっと教えました。

プラ・パヨム :繰り返しな。

プラ・ウォー :繰り返し教えました。心の空に関しては十年以上話していて、クックリット殿下と衝突して、一週間も二週間も新聞の一面のニュースになりました。空に関しては、師はそれまでの枠を壊したと思います。師自身もそれを認めています。最近ターン・プッタタートについて書かれた文章を読んだのですが、その中で、ターン・プッタタートをリチャード バードの書いた小説の主人公「カモメのジョナサン」に譬えていました。

筆者は、かもめのジョナサンは型破りで、カモメというのは通常稼ぐことにだけ興味があり、だから低く飛んでいます。稼ぐとは、魚を獲ることで、低く飛ぶとは、水面の上を旋廻していて、魚が見えれば啄ばんで、満腹すれば飛び、またお腹が空いたら魚を食べ、これだけを繰り返して死んで行きます。

しかしリチャード バードのカモメ、ジョナサンは、食うことには興味がないので、低く飛ばず、高く飛びます。他の鳥たちが飛ぶような高い、空の天井を飛ぶ練習をします。筆者はそこがターン・プッタタートと同じだと言います。稼ぐことに興味がありません。

プラ・パヨム :祈祷の類は一切せず、厄除けや厄払いなどの儀式は一切しなかった。低いところを飛ばないカモメだ。

プラ・ウォー :聖水も掛けませんでした。

プラ・パヨム :人々に迷信じみたことをして某かの物を受け取り、そのお金を使うというようなことは、一切しなかった。

プラ・ウォー :手を触れませんでした。稼ぐこと、あるいは僧の階位、ほとんどの人が欲しがる最高の階位も辞退してしまいました。これが低く飛ばないこと。簡単に言えば、食うこと、五欲、名誉には触れませんでした。それらは低いもので、俗人のもので、俗人が奪い合って、痛手を負うものなので、師は手を触れませんでした。これは低く飛ばないことです。二つめの高く飛ぶとは、高く飛べる人は、高く飛ぶ鳥は、それだけ遠くが見えると言っています。

 ターン・プッタタートは高く飛び、つまり僧の組織から離れて、スアンモークを造り、サンガ(僧組織。仏教界)の運営や支配から出て、自身をできる限り自由の身にしました。国王から与えられる栄誉名ではなく、自分自身でつけたプッタタートというペンネームを名乗りました。これが精神的な意味で高く飛ぶことです。

プラ・パヨム :ここでちょっと。師はサンガと敵対していたわけではなく、うまくいっていた。しかしサンガがしていたことでも、たとえば儀式に時間を費やすなど、利益が少ないこと、あるいは却って害があることなどに関しては、師はしないこともあり、仏教の教えだけを探求していた。早く言えば、祈祷、読経、説教のうち、説教はしたが、祈祷と読経は他の人たちに任せた。

プラ・ウォー :これが高く飛ぶことです。枠から出ても、枠の中の人が認める枠外の人という意味です。普通は枠から飛び出してしまえば、枠内の人は認めませんから、問題が起こります。しかし信じられますか。師はサンガから出て外部の人になりましたが、サンガを管理するサンガモントリー(僧組織内の大臣にあたる地位)のような大長老に選ばれました。違う宗派なのに、ですよ。プッダコーサーチャン殿下が、タンマユッティ(ターン・プッタタートと違う宗派)が賛同しています。

プラ・パヨム :テープシリントン寺。

プラ・ウォー :プッダコーサーチャン殿下がスアンモークへ出向いて激励し、そこで雨季の間過ごしています。みなさん考えてください。師は群れから離れたのに、なぜ群れの中の人が認めるのでしょう。これは、社会のために何かをする人は、他人を敬い、己は小さく謙って、大きな仕事をするべきだということです。師がこのように高く飛んだから、つまり何も求めなかったから、鳥のように遠くが見えました。師は、何が仏教の精髄かが見えました。

 師は「私は祈祷をしない、読経をしない」と言い、 これが遠くが見える高く飛ぶことだと教えました。私たちはこの世で死んだら次の世に生まれてと教えますが、師の教えは、他の人が教える生老病死ではなく、もっと深遠で、生まれること死ぬことを超越しなければならないと言いました。普通の人がカンマの法則を話すと、こうするとこうなると言いますが、一般の人より高いです。

プラ・パヨム :カンマに負ける。

プラ・ウォー :教えるのはカンマに負けることだけ。ターン・プッタタートはカンマを終わらせることを教えました。

プラ・パヨム :運命を受け入れ、定めに任せる。しかし師のは、認めず、何としてもカンマの上にいる。特別の状態だ。

プラ・ウォー :ターン・プッタタートは、私たちが慣れているすべてのものから抜け出し、宗派の話も、タンマユッティとマハーニカイ、あるいはテーラワートとアーチャリヤワートなど、「こういうのまだブッダの仏教ではない。ブッダの仏教には宗派はあってはならない」と言いました。こういうのが、高く飛べば遠くが見えると言状態です。

プラ・パヨム :私にこう言ったことがあった。祈祷するかしないかは、祈祷する宗派としない宗派として、別の宗派であるべきだが、タンマユッティは祈祷するか、マハーニカイ(大宗派)は祈祷するかと言えば、どちらも同じだ。祈祷する宗派と、祈祷をしないで説法とタンマの実践だけをする宗派、こう分けることが大事だと。

司会者 :さきほど和尚さんがカンマの上にいるとおっしゃいましたが、どういう意味ですか。

プラ・パヨム :聞いたことがないんだね。人が善を行うと、悪を捨て善をしなさいと教えると、善の中毒になる。ブッダは「善も悪もどちらも下賎だ」と言っている。これには深い意味があり、善は人を簡単に中毒にする。人にあなたは善人だと言われると、そりゃあもう誇らしい。それにもう一つ、善行にはよく名前を書く。たとえばお寺に寄進すると、名前を刻んだりする。

司会者 :善中毒ですか。

プラ・パヨム :中毒になる。もし名前を貼らないとひねくれちゃうんだ。時にはいろんな人に贈り物をして、渡している時の写真が撮れないと、ものすごく怒る人がいる。善中毒だ。(一同 笑)

プラ・ウォー :私がお寺の広報部の仕事をしていた時、寄付した人の名前を間違えただけなのに、

プラ・パヨム :死ぬほど怒られた。

プラ・ウォー :「和尚さんお金を返してください!」。名前の表記をちょっと間違っただけですよ。その人は善の中毒です。寄付をして徳を積む代わりに、薄い煩悩を濃くしてしまったんです。

プラ・パヨム :郊外のある団体で、タイ社会で何かしたのを見たら、善行を届け出れば、星やら何やら出して表彰するというのがあった。

プラ・ウォー :タイ人は善気狂い。

プラ・パヨム :善気狂いになりたくて、応援せずにいられない。善に溺れさせ、中毒にさせ、酔わせる。それで重症になれば黄疸になる。(善と胆嚢が同じ言葉であることによるシャレ)

司会者 :善行をした人の名前を張り出すのは、それを見た他の人が善行をしたいと思うかもしれないから、悪いことではない、と言ったら?

プラ・パヨム :善を公表された人が自信をもっちゃうか、あるいは善に迷ったり酔ったりしなければ良い。しかし善に溺れたり中毒になったりしたら厄介だ。、私たちは公表したが、名前を書くと、師は消して行った。師はとっくに超えてしまった。しかし表向きだけ公表しすると、ほとんどの人はのぼせ上がる。

プラ・ウォー :得意になります。みなさんほとんど得意になってしまいます。

プラ・パヨム :俗人ならのぼせ上がる。

プラ・ウォー :ターン・プッタタートは『石を背負っている人は重くないか』と言っていました。

司会者 :重いです。

プラ・ウォー :一キロの石を背負うと重いと言い、ダイヤ一キロ背負って、重いかと聞けば、同じ重さです。

プラ・パヨム :だが、好きだから重くても受け入れる。

プラ・ウォー :でもダイヤは好きです。石とは何か。石は悪だから重い。これはハッキリしています。ダイヤも同じに重いですが、人がダイヤを重いと感じないのは、好きだからです。しかし重さという点で見れば、石を背負うのもダイヤを背負うのも同じで、善を背負うのも重く、悪を背負うのも重い。だから師は、善にも悪にも中毒になってはいけないと言いました。善や悪を超えれば軽いです。自由です。

プラ・パヨム :徳を積んでも徳に夢中にさせない。そうでないと徳に酔い、徳に溺れてしまう。

司会者 :夢中になってはいけない、ですね。

プラ・パヨム :そう。こういう話しがある。マー婆さんが集会所の柱を寄進して、そこに名前を彫り、彼女は毎日お寺へ来てその柱のところに座った。ある日マオ婆さんが先に来て、その柱がマー婆さんの柱と知らずに座ると、そこへマー婆さんが来て、なかなか座ろうとしないで、いつまでも歩き回っていて、「誰の柱か分かりそうなもんだ」と呟いていたので、住職が気づいてマオ婆さんに「こっちへ退きなさい。持ち主が来たから」と言った。本当はどこに座ったっていいんだ。だが、人間がこの柱は自分のだと執着している。

司会者 :自分の名前が彫ってあるから。(笑)

プラ・パヨム :そう。これは滑稽な話しだが、あるメーチー(寺に住む白衣を着た剃髪の女性)が仏像を造って、自分の作った仏像に線香をあげて拝んでいた。風が吹くと線香の煙が他の人の仏像の方になびくので、自分の仏像のほうにだけ煙が行くように、漏斗のような蓋を作ったら、仏像の顔が真っ黒になっちゃった。(一同 笑)

プラ・ウォー :それが善中毒です。田舎のあるお寺で、お寺の支援者が大きな堀をお寺に寄進して、新しい和尚が寺内をすっかりきれいに改修したんですが、その堀だけはそのままでした。何故かと言えば、支援者が、私が先に作ったんだから手をつけてはいけないと言うので、お寺は何もできないで、仕方なく見苦しいままにしてあります。

これは善中毒だけでなく、お寺の土地を自分のものと捉えたので、独占権になってしまっています。だから私は建物の住職と呼んでいます。お寺にいる住職は何もできず、最終的には支援者が見に行きます。今あちこちのお寺が見苦しい状態のままになっているのは、外部の人の執着がお寺に介入しているからなんです。

プラ・パヨム :何も改修できない。

プラ・ウォー :改修できません。パンヤー和尚が、「お寺を造るなら新しいお寺を造りなさい。古いお寺を造り変えるのは、古い施主が自分の徳に執着しているから」と言っていました。

 だからターン・プッタタートは、善にも夢中になるな、悪にも夢中になるな、カンマも負けるだけではいけない、カンマの上にいなさいと言っています。

プラ・パヨム :カンマを信じて、それからカンマの上に行く努力をしなければいけない。カンマを信じてそれに負けるのではない。これははっきり言っていた。

司会者 :バンチャーさんはターン・プッタタートの本を数多く出版して来られましたが、教えの中のどの教え、あるいはどの部分を人生の指針にしてらっしゃいますか。

バンチャー :「サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ。何物にも執着するべきでない」です。これは私が中学生の頃から信条にしている教えです。それで本当に問題解決ができました。友達と父親の名前をからかい合って、彼らは怒りで殴りかかりそうになりましたが、父の名をからかわれても、私は平然として微笑を浮かべて、阻止もしなかったので、友達は面白くなく、興ざめしてしまいました。

プラ・ウォー :湿った爆弾。(微笑)

プラ・パヨム :点火しても爆発しない。(微笑)

バンチャー :仏教の項目には理解できないものもたくさんあるので、とりあえず憶えておきます。まだ到達できないので憶えるだけ憶えておき、人生経験、つまり次第に歳をとると、人生経験が、人生の課題が、あの項目のタンマはこういう意味だったのか、どういう時に使えるか、子や孫にどう教えたらいいかを、自然に教えてくれます。

司会者 :バンチャーさんはお子さんにどう教えられますか。ターン・プッタタートの教えのどの項目を教えますか。

バンチャー :子供には自由を与えています。ターン・プッタタートは「幼稚園からローグッタラタムを教えなさい」と言っているので、私は率直に言っています。子供は、幼稚園児であれ、乳児であれ、母親の胎内にいる時でも、ローグッタラタムを教えるべきだと私は考えています。だから子供に会って話す機会がある度に、ローグッタラタムの話しをしています。

 空っぽの心、空っぽの心で仕事をすること。働くことはタンマの実践。自分に執着しないこと。自分のものではないこと。そして足るを知ることなど。西洋人は「サンドーサ(知足)はアジアの教えだから、アジアは欧米のように発展しない」と言いますが、これは大きな誤解です。私も子供に、「あるものに満足する。貰ったものに感謝する。必用なだけ使い、余りは社会のために使う」と教えています。

司会者 :子供にタンマを教えるのは難しいですか。

バンチャー :難しくありませんよ。ちょっとした方便を使って、昔話のように、譬えを使って教えるんです。しかし一番大切なことは、行動して見せることです。周りのものは決して高価なものでなくても良いです。簡素なものにします。そして人的環境が一番大事で、両親や親戚、友達、それから国の管理者である政府まで、手本を示すべきで、手本が悪ければ青少年は駄目になります。

私たちは間違ったものが社会にあっても放任しているので、いろんな悪があります。宝くじは断じて間違っていると思います。何億、何十憶というお金が学校や病院のために使われても、手段が正しくありません。宝くじの被害は実に甚大です。酒や煙草と同じで、意志を強く持たなければなりません。生活や食生活、買い物などにサンドーサの教えを使えば、酒や煙草や宝くじは必要ありません。

司会者 :バンチャーさん、子供の頃からタンマを教えられて、学校へ行ってもそれを身につけているという手応えは、どうやって得られますか。子供は普通学校から帰って両親と過ごす時間は何時間もなく、すぐに寝てしまい、学校で友達と過ごす時間は少なくとも十時間はあります。

バンチャー :人間の心の自然な状態は善で、ターン・プッタタートは「元々の心は純潔だ」と言っています。つまり元々の心は空っぽ、つまり煩悩や欲望、執着がありません。後になって塗り重ねられました。

プラ・パヨム :客人のように、時々訪ねて来る。

バンチャー :後で環境によって塗り重ねられます。だからタンマを学んで、無明である塗られたものを心から研き落として、真っ白にしなければならなりません。そうすれば最後には心の穏やかな状態、涅槃に到達します。学校の環境が良くなくても機会はあります。両親は家庭環境を最善に整えて、プラスとマイナスで戦います。戦わなければなりません。

司会者 :家庭環境を良く整えるとはどういう意味ですか。

バンチャー :たとえば両親が夜遊びをしない。ギャンブルをしない。下品な言葉を使わない。つまり悪から距離を置いて、自分が手本になるようにします。

司会者 :手本になって見せるんですね。

バンチャー :小さな図書館を作って、善い本を並べたり、仏教のコーナーを作って、子供向けのタンマの本を置いたり、何でもです。何でも

司会者 :しかしバンチャーさん、どうして確信できますか。普通の若い子は、両親といる時はきちんとしていても、外へ出ると着替えをし、友達といると態度も変わります。家にいる時の子供は善くて、タンマをしっかり維持していますが、外へ行っても着替えをしていない、ミニスカートに穿き替えていないとどうして分かりますか。

バンチャー :彼らをある部分、信頼しなければなりません。元々の心は純粋で善であるという仏教の教えがあるので、自分の子供を信じ、そして私自身も善いことだけ、正しいことだけをします。そうすれば将来は自然に良くなります。そう信じなければいけません。しかし両親よりも環境の影響の方が強ければ、それは社会のカンマ、国の因果です。本当は政府の力は強くなく、身勝手をなくせば社会に秩序が生まれます。

司会者 :そうですね。チョンランシーさん、お父さんからタンマを教えられた時、学校で友達に教えましたか。

チョンランシー :父は時間を決めて座って話すというような教え方はしないで、家の雰囲気がそういうものでした。「アナッター」「タターター」というような言葉を子供の頃から見慣れていました。しかし意味は理解できませんでした。「タターター。そのようになる」分けが分かりません。それに、スアンモーク寺やスアンケオ寺のように、言葉や詩が貼ってありました。「身勝手でなく」とか「長所を見よ」とか。それとプッタタート師の詩が貼ってありました。それが知らず知らずのうちに身に染みて、現在があります。年に応じてだんだん近寄り始めました。

 友達に教えたかという質問の答えは、一人だと思います。当時を思い出すと、下品な言葉を使いませんでした。仲間の子たちはみんな、ヤツとかオレとかいろんな言い方をしていましたが、私がそういう言葉を使わなかったので、私と話す時にはそういう言葉使いはしませんでした。

 それから子供の時、「どっちでもいい」という言葉をよく使いました。誰かに「好き?」とか「どっちが良い」とか「どうする」と聞かれた時、いつも「どっちでもいい」「どっちでもない」と答えました。高校で交換留学生になった時、英語には「どっちでもない」という言葉がなく、「好き」か「嫌い」かしかないので、それでどう答えたらよいか困ってしまいました。それから、人は感情がどんどん多くなることを学びました。

 大人になった現在、会社の仕事で父を見ます。特に「プッタタート生誕百年企画」に関わっていると、ターン・プッタタートがたくさんの仕事を残されたのが分かります。今使っている項目は「タンマとは義務」です。だから個人的な仕事も、会社の仕事も、それから団体の仕事も、自分の義務に満足しています。

司会者 :どっちでも良い人と、愚図はどう違いますか。

チョンランシー :愚図は見すごすことで、見過ごすことは興味がないことです。心を配ってそれについて正しく考え、正しく行動すれば愚図ではありません。「どっちでもいい」は、中間の状態でいろんなことをすることですが、愚図ではありません。

司会者 :その日その日を生きていて、る人でしょうか。朝から晩までどうでも良く、そして明日は明日というような、こういうのを「どっちでもいい」と言えますか。

チョンランシー :そう考えるには、どこまで自分の義務と捉えているかですね。人はそれぞれ自分の義務がありますから。

プラ・パヨム :「私は今心が空だ。空だ」と引用するのが好きな人がいる。プッタタート和尚は「空っぽヤクザ」と呼んでいた。何もしたくないための空だ。

司会者 :空の心を引用。

プラ・パヨム :空の心を引用する。(笑)

チョンランシー :ここで言う空の時は、仕事をしている時、原因を教え、なぜこうなったのかを教え、それがどうなるかを教えるために触れるものがあります。だからこの理解で認めることは負けを認めることでなく、正しい理解です。

プラ・パヨム : 俺、私、自分、自分が取る、自分が持つ、自分がなる、という感覚がなくなること。こういうものが無いことで、考えや知性がなくなることではない。「俺」という感情をもってはいけないだけ。俺という感覚が無になること。

司会者 :今年はプッタタート生誕百年になります。ターン・プッタタートは仏教にとってどのように重要かと聞かれたら、和尚はどうお答えになりますか。

プラ・パヨム :そりゃあ勿論。ここは大切だ。それは明らかに分かれた平行線。つまりみんなが見る普通のお寺は、儀式や徳を積むことだけで、仏教の目標がどこにあるのかを明確に示してなく、お寺へ行ったら徳を積んで(布施をして)、それで帰る。何も考える課題を与えないが、師はお寺を智慧にとって利益のある場所にし、娯楽は一切ない。映画や音楽はない。

 師は、楽しいお寺でなく、静寂なお寺、教えるお寺にした。今我々は、お寺を楽しくするのが好きで、一年中娯楽のあるお寺、そして呪術や祈祷などの儀式を行う寺を、明らかに観察できる。つまりプッタタ−ト師は仏教学と呪術祈祷学を明確に分けた。

司会者 :スアンケオ寺の辺りにも一年中娯楽があります。聞いたことがあります。

プラ・パヨム :おお、周り全部だよ。師がこういうお寺を作ってから、多くのお寺が、どっちの方向にするか考え始めた。娯楽がないお寺、経を唱えるお寺、仏教の教えを教え、行けば智慧の面の利益がある寺がどんどん出始めた。私の寺も増やしている。プッタタート師は心の糧、頭の糧を与えることと強調している。私の寺も三足寺を増やしている。

司会者 :三足寺?

プラ・パヨム :お寺に来たら果物をご馳走して口と腹を満腹にしてもらい、それから適度に布施をして心を満たしてもらい、最後は頭を満腹にして帰ってもらう。タンマの本やCD、テープを配る。年間三、四百万バーツ配っている。これはかなり大きな基金だ。

 工事に年二、三千万バーツの金を使うのとは訳が違う。今は良くなり始めた。昔は道を造ったり、堀を埋めたりする予算だけで、暑季に子供を出家させる道徳面の予算、宗教的なものの予算はなかった。それで一人幾らか知っているかな。年に一人二バーツ五十サターン(約八円)。田舎の人たちは、国が宗教行事に、一人頭二バーツ五十サターンの予算を当てている。

 しかし道路を造る予算は・・・・。それでみんなオートバイに乗って、ガソリンの無駄遣いをしてぶっ壊す。こういうどうしようもない使い方の予算は幾らでもあり、道徳を取り戻すための予算はない。

司会者 :それでターン・プッタタートは、生き方の基礎としてタンマを教えました。

プラ・パヨム :基礎だね。それにハッキリしている。非常に頑丈だった。誰かが揺らそうとしてもビクともしなかった。そこが際立っていたね。宗教で誰が何をしても関わらないで、師は自分の道を貫いた。

司会者 :他のお寺には本堂がありますが、スアンモークにはありませんね。

プラ・パヨム :ある。自然の本堂で、不要なものは何もないが、必用なものは造った。たとえば精神の娯楽館。教えを広め伝えるものは造った。実際に造ってみると実に不思議だ。今は良く分かる。普通のお寺は和尚が亡くなれば寂れてしまう。

 たとえばウェーン和尚など、お寺はすっかり荒れてしまったが、ターン・プッタタートは、亡くなって十年たってもまだ生きているようだ。生きているように亡くなったと言えるだろう。師は「私は死なない」と言った。偉業は死なない。人は思いを馳せ、語り、今、生誕百年祭が企画されている。まるで師が再生するかのようだ。プッタタートがもう一度生まれるようだ。

司会者 :ターン・プッタタートの本がずっと出続けていることもあるでしょうか。

プラ・パヨム :それ、それが大きな要因。それが死なない遺伝子だ。

バンチャー :昔はタンマの本を探して読むのは大変だったと師は言っています。人も、まだあまり理解できなかったから。師がタンマの本を多数出すことに火を点けました。科学的なタンマの本で、それに出版を快く許可しました。それが、師が死なないもう一つの大きな理由です。

プラ・パヨム :その頃師は、一日九時間は本を書いていたと見ている。当時は誰も、タンマの本に興味のある人なんかいなかったから、我慢できなくて、「誰もタンマの本に興味がないのに、どうして和尚は一日中本を書いているんですか」と師に質問した。師は、「私は心の食べ物を作る料理人だ。みんなの腹が減ってから作ったのでは間に合わんかもしれないから」と言った。

 「今はまだ人は空腹を感じていないが、私は作っておく。カレーとサラダと、にんにくと、ナンプラーと用意しておく。酸っぱさ、甘さ、塩辛さなど用意しておく。客の腹が空いたら、皿に盛って振る舞ってやれる。この本を作っておかなければ、腹が空いた時、間に合わない。印刷が間に合わない」と。

司会者 :時期を逃す。

プラ・パヨム :師はそう考えた訳だ。印刷(出版)することには無関心だった。誰が読むか読まないか、誰が空腹か空腹でないかなどは他人のこと。作っておけば、空腹になったらすぐに盛ってやる。これは不思議だね。師の考えは他の人と違う。失礼だが、あんたが番組を二、三回作って、見る人が無く、視聴率が低かったら、作る意欲を無くすでしょう。

 しかし師は気力を失うことなく、いつも考えていた。これが偉大な人物プッタタートの際立っている点だね。善いものがあると分かれば、誰も食べないということはない。作っておいたのに食べない、見ない、読まないということはない。いつかそれが必用になって、大勢で訪ねて来る。

司会者 :人がタンマの本やタンマに興味をもつのは、何と関連していますか。バンチャーさん、社会の経済状況と人々の心は関係ありますか。

バンチャー :国民や庶民の心のレベルは、梯子と同じで、いろんな段階があります。問題を抱えている人はタンマで解決できると考え、正しい考えです。しかし師は、早いうちに向こう側に渡ってしまいなさい、歳をとってから渡ろうと考えてはいけない、と言っています。つまり年をとるのを待ってお寺に行くのではない、ということです。

「若者の道徳は世界の平和」という言葉と同じで、タンマの勉強は早いうちに始めるべきだと指摘しています。子供の時から、青少年の時から。私は「百人、百タム、プッタタート百年」という本で初めて知ったのですが、その本には、師と交流のあった弟子や一般の学習者などのインタビューがあり、その一部に、「若者の道徳は世界の平和」という言葉がありました。それは、師が死の寸前に考えた最後の教えの項目だそうです。

 師は、これは非常に良い提言であり、世界がこれにそって進む指針になると考え、スアンモーク寺の受付にいる僧に言って布に書かせ、建物に張りました。亡くなる寸前のことです。師は一晩中座ってそれを眺めていたそうです。師は闘士であり、ブッダの僕、あるいはタンマの僕らしく、すべての時間をタンマのために捧げたということを表しています。

司会者 :タンマの本の売れ行きが良い時と、国の経済に問題がある時は関係がありますか。

バンチャー :多少あります。

プラ・パヨム :苦は信仰を生じさせると言われている。ある実際にあった話で、「クー ムー マヌット」は英語に翻訳されて多数出版されているが、その本がアラブの国のあるホテルの部屋に、破り捨てられてあったそうだ。そこに泊まったイラン人の医師モハマッド アリー氏は、その時、個人的に経済の問題を抱えて苦しんでいて、裂かれてごみ箱に捨てられていた二、三枚の紙と、本ではなくてな、本の背表紙らしいものがあって、「人間マニュアル」と読める。

 彼は、「え? 人間にもマニュアルがあるのか」と思い、拾い上げて読んでみると、二、三行読んだだけで非常に心に響くものがあった。それから他の部分を探して全部読んだ。するとその作品、その文章、その考え方が気に入ってしまった。しかし宗教は変えない。彼はモスリムだが、他に英語になっている本、四、五冊を買い求めた。問題を抱えている人は、心に響くものがあれば、ビビッとくる。

司会者 :バンチャーさんがおっしゃったことと一致しますね。経済が悪くなってくる、あるいは国が危機に直面すると、人々はタンマに関心を示すと。

バンチャー :バブルが弾けた時、商業界は寂れ、本の業界も同じでした。しかし研究者や学者たちが言うには、本の売上はそれほど落ちていない、タンマの本は却って伸びているということです。私のところも、バブルが弾けた頃から伸びてきたと言ってもいいくらいです。

プラ・パヨム :お寺と同じだな。スアンモークにはソートーン寺のように霊験のある仏像はないし、ナコンパトムのような仏塔もなく、ナコンパノムのような仏舎利はないし、サラブリのような仏足石もない。スアンモークには何にもないが、それでもタンマの本だけで楽に維持していける。スアンモークに来る人は、有難い仏像や仏塔、仏舎利や仏足石を拝みに来るわけではなく、テープやCDや本を買いに来る。だからお寺は非常に潤される。

司会者 :いろんな所の発表によると、今のように経済的な緊張のある時は、タンマの本の売れ行きが良くなると言います。

バンチャー :私も確かにそうだと思いますね。ただ研究者の調査結果が出ていないだけでしょう。

プラ・パヨム :え? 出てる。私は読んだことがある。誰の調査か知らないが、タンマの本の売れ行きが良くなったと書いてあった。

バンチャー :幾つもの出版社が協力してタンマの本を広めたことも一つ、経済の状態、心の状態も一つだと思います。しかし、ユネスコがプッタタート師を世界の偉人に選定したことが、タンマや、スアンモーク、スアンケオの科学的な教えに興味を持たせた大きな原因だと思います。

プラ・ウォー :ちょっと付け加えさせてください。国の出来事が危機的な時にはタンマの本の売れ行きが良くなるなら、最近いろんな団体や同盟が自由平等を訴えるようになってから、プラ・ボロマクナーポンさんの「タンマ主義がないから民主主義もない」という本が出ました。一ヶ月で十万部も印刷されたんですよ。信じられないでしょう。

プラ・パヨム :おとといの朝テレビに出て、ちょうど識者に聞かれたので、それを見せたら、見せた途端ある人がお寺に来て、人々に配るので一万部印刷したいと注文して行った。それがもう終わるそうだ。これが現代人の心にぴったり来る、タイミングのいい本「タンマ主義がないから民主主義もない」だ。

プラ・ウォー :それは真実です。プッタタート師は「社会の危機はタンマの黄金時代」と言っています。これは真実をついています。97年以降、本や他の商品はすべて落ち込んでいますが、タンマの本だけはブームです。でも、タンマの本がショーウインドーに飾られたことはありませんね。

プラ・パヨム :ベストセラーになった本はない。全然ない。(一同  笑)

プラ・ウォー :ありませんでした。でも今はあります。

プラ・パヨム :マンガの「小坊主パヨムは大忙し」。子供たちが来ては、「新しい本はいつ出るの」、「次の本はいつ出るの」と聞く。こんなことになるとは思いもしなかった。

プラ・ウォー :これは社会が不運な時代はタンマにとって黄金時代だという真実を反映しています。だからターン・プッタタートは作って用意しておいたんです。

プラ・パヨム :先を見通していた。

プラ・ウォー :苦しくなったらよそって出す。タンマをよそって。

プラ・パヨム :空腹になれば出合える。

司会者 :最近の政治危機は、政党が幾つにも分かれ、どの政党も態度が頑なで、自分や自分の方針、自分の政党に執着しています。ウォーさん、ターン・プッタタートの教えのどの教えで、この政治的危機を解決できるとお考えになりますか。

プラ・ウォー :私は少なくとも二つあると思います。一つは「俺、俺のもの」、もう一つは「執着しない」です。私は偉い、私は重要人物だ、私は最高に正しいと確信していれば、ある政治家が「私が政府だ」と言ったように、つまり私は国家だという意味ですが、国がどうなるかは「私」次第です。そういう人が首長になったら、野党が良いことを言っても聞く耳を持ちません。野党だからです

「私、私のもの」と執着すれば、他の政党で立場が違うので、、他人の良いところも誉めません。他党が良いことをしても、自分は多数派なのだから、他の党を持ち上げる必用などありません。政党や派閥に分かれることは、非常に、万里の長城よりも発展を妨害します。

国王陛下がお話しになる時、人々は、王様はどちらの政党をお選びになるのだろうと考えます。みなさんもご覧になったことがあると思いますが、国王陛下がどちらかをお選らびになって、一方は傷ついたが他方は有利になった、ということはありません。みんな身びいきな解釈をして、王様は私の味方だと考えます。

プラ・パヨム :信じられないような新聞記事があった。王様がおっしゃったのを聞いたこともある。何でも国を救う、国を救うという言葉を使うが、国王陛下が国の救済を支援していると新聞に書いてあった。(一同 笑)

プラ・ウォー :身びいきな解釈ですね。彼らがそう考えれば、国王陛下がおっしゃった良いことは、普遍になってしまいます。国王陛下の発言は深いです。選挙の度に、国王陛下は正しい方をお選びになり、どちらが正しいか、誰が正しいかは、国民自身に言わせます。国王陛下がどちらかを選ばれたことはありません。しかしタイ社会はプラスじゃなければマイナスです。

 プッタタート師はプラスでもマイナスでも、どちらかを選んではいけないと言っています。「二人の人が喧嘩をしている時、誰が正しいかと聞いてはいけない。二つの側が争っていたら、何が間違いで何が正しいかと問いなさい」と教えています。何が正しいか何が間違いかが分かれば、自然に誰が正しいか、誰が誤りかも分かります。しかし、この人が正しいと言えば、もう一方も必ず私の方も正しいと言い出し、余計に紛糾します。これが「俺、俺のもの」の問題です。

 二つ目の執着しないことは、師は、「あなたが誰であろうと、最後には全員死ぬ。あるのは空だけと言っています。だからブッダは、『サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ』すべてのものに執着してはいけないと言っています。一つにはそのものとしての実体がないから。二つにはいろんなものは一時的なものだから。三つには、それを抱きしめることができても、次の世まで抱いて行くことはできないので、死ぬ時にはそれらのものを、すべて大地に返し、すべて自然に返さなければならないから。

 社会的立場、たとえば政治的な地位に執着し名声に執着していれば、その地位を失った時、もう道路に出ても先導する車はありません。その状態を受け入れることができなければ、精神的な苦が生じます。無名な一個人になれないで、非常に苦しみます。それまで豪華な食事ばかりしていたので、汁ビーフンなど食べられません。苦しいでしょう? これが執着です。

 有名人は、ある日ティーラさんが司会者を辞めて、誰もサインを求める人がいなくなると、本当は人生で何でも出きるのに、人生に嫌気が差します。だから二つのこと、つまり俺、俺のものを捨てることができれば、タイ社会は非常に発展します。

 政党や派閥を無くすことができれば、反対側にも素晴らしい知恵のある人がいるのが見えます。野党にも、与党にも、お寺にも、タンマユッティにも、マハーニカイ(大宗派)にも、力のある人はたくさんいます。俺、俺のものをなくし、政党派閥が崩壊すれば、どこからでも智慧を集めることができます。二つ目の執着しないこと。これを理解するだけで、風の流れのような世界に住めます。

司会者 :しかし彼らはこう言うかもしれませんよ。執着しているわけではない。ただ法律に従い、ルールに従い、投票者の支持に従っているだけだと。

プラ・ウォー :民主主義の原則に、多数の意見を以って決定するというのがありますが、多数決で正しさを決定してはいけません。馬鹿な庶民が百人いて、そのうちの九十九人が生き物を殺しても良いと賛成し、一人だけが反対したら負けます。そして「これは民主主義だ。多数の意見だ」と言います。しかしこれは盗賊の民主主義です。最近のタイの民主主義はロクデナシの民主主義だと思います。

国王も「群れてはいけない」とおっしゃっています。この「群れない」という言葉は、ティーラさんに説明していただかなければなりません。つまり多数派に引っ張られて、正しい見解や意見をもった人が出てきません。3チャンネル、5チャンネル、7チャンネル、9チャンネル、どこにも出てきません。こんな状態で、出て来る意見はどんな意見ですか。それでこれが正義だと言います。

そうではありません。それは要望で、要望と正義は違います。今は、こうしたいという要望で国を治めていて、それでこれが大衆の意見だと言います。自分たちの民主主義について熟慮しなければ、タンマ主義、つまり軸である正義を使わなければ、プッタタート師が唱えたタンマ社会主義を使わなければ、タイ社会は多数派に引っ張られてしまいます。

プラ・パヨム :師はそれ以上に、「タンマによる独裁の方がご機嫌取りの民主主義よりマシだ」と言っている。今は強いものにへつらう民主主義だ。昔煩悩の強い人による独裁があったから、タンマの独裁ではなかったから、独裁という言葉に現代人は神経質になっていて、独裁のイメージが悪い。時には独裁によって国が救われた時代もある。だが、本当に善人でなければならないがな。偶然一代おきになっている。サリットの時代はあまりタンマを使わず、サンヤー先生の時は弱くて、ひ弱な民主主義だった。

プラ・ウォー :善い人は少ないです。実際師はとても善いことをおっしゃいました。アショーカ大王の時代には、王は独裁で、絶対君主制で、タンマで家臣を教育管理しました。国王陛下がタンマでこの国を治めるとおっしゃるのと同じように、アショーカ大王はタンマによる独裁で、その時代はインドの歴史の中で、一番繁栄した時代で、仏教も最高に繁栄しました。

ブリタニカ百科辞典には、二千年前のアショーカ王の時代には、インドの識字人口は現代よりも多かったと書いてあります。それがタンマによる治世、ンマによる独裁です。民主主義でも独裁でもいいですが、タンマを使えば、社会は必ず良くなります。最近は民主主義には違いありませんが、本当は綺麗な包装紙です。民主主義は人民に由来していますが、内容はどうか、これは観察してみなければなりません。

司会者 :和尚さん、曲石座は何を表しているのでしょうか。スアンモークに行ったことがありますが、石が丸く並べられ座席のようになっていました。チョンラプラターン寺にも、スアンケオ寺にもあります。

プラ・パヨム :曲石座は、僧の簡素で静かな暮らしの手本として作られている。高価な本堂や集会堂はいらない。石と砂で簡単にでき、お金も掛からない。在家の人が五百万、一千万という寄付をして本堂や集会堂を建てなくても、十万(バーツ)でできる。私のところは十万でできた。スアンモークのよりいい。スアンモークのは一万も掛からない。そこには「手本になる寄進」と書かれている。つまり僧の鉢に、食べ物を一緒に入れる。僧は食べ易くなければならないから、僧への寄進も簡素であるべきだという手本を示して見せる。

司会者 :自然な暮しですね。

プラ・パヨム :自然な暮らし。

司会者 :和尚さんはターン・プッタタートの所に何年から何年までおられたのですか。

プラ・パヨム :一番初めは1972年に行ったが、プッタタート師は、まだナックタム一級が終わっていないと言われ、その時まだ二級が終わったばかりで、師は一級が終わったら来ても良いと言われた。それから行ったり来たりして、1973年から1980年まで七年いた。

司会者 :写真には、よく鶏が一緒に写っていますね。それから犬も。

プラ・パヨム :鶏も、カエルも、犬も魚もいる。

司会者 :あれは何を伝えたいのでしょうか。

プラ・パヨム :それは、自然と暮すこと。鶏は師の膝に乗って座ったて、非常に懐いていた。野生の鶏だよ。野生の鶏がなついて、師のクティ(僧房)の周りで餌をついばんでいた。

プラ・ウォー :鶏についても師は言っています。鶏は人間と違う。つまり鶏は寝る時刻になるとすぐに寝るが、人間は寝る時刻になると睡眠薬を飲む。鶏を先生にするべきだ。鶏先生、と呼んでいて、師は詩にも書いています。『鶏先生は一度も精神安定剤も睡眠薬も飲んだことがない。しかし自分は賢いと自慢する人間は、睡眠薬を飲まなければ眠れない』と。(一同 笑)

プラ・パヨム :インテリの人たちは気の毒だ。子供に教育を受けさせるために、親も子も入学試験で悩み、母親は子の代わりに悩んでいる。師の鶏に恥ずかしい。

プラ・ウォー :鶏に恥ずかしいですね。犬の話しですけどね、師はサムパーラと名づけました。これは皮肉で、サムパーラは普通「住職」という意味ですが、師の場合、住職は犬の名前です。人が宝くじの当たり番号の予想を聞きに行くからです。

プラ・パヨム :「(予想する当たり札の)番号を教えてください」という人がいると、師は「サムパーラに聞け」。(一同 笑)

プラ・ウォー :そのまま受け取って、「サムパーラさんはどこにおいでですか」と尋ねると、師が指差すのは犬です。

プラ・パヨム :今も像がある。犬は死んでしまったが、像になっている。

プラ・ウォー :すべてはタンマを教えています。曲石座もそうです。私はあそこで食べたことがあり、一日一食です。だから非常においしい一食でした。今日の食事は誰が寄進してくれるのかな、と考えていました。街の中のお寺では(食べ物を)選ぶことができますが、あそこでは、普通のパックブン(空芯菜)が美味しい。

プラ・パヨム :(笑)空腹が一番うまい。

プラ・ウォー :僧と在家は常に交流があり、接触があります。しかし街の中のお寺は、料理屋から出前を取ることもあり、在家の人の顔が見えません。なぜあそこの僧が在家の人を理解しているかといえば、腹を預けているから、在家があって生きていられるので、お互いに助け合っているからです。

プラで・パヨム :私が福祉の仕事をしている理由にはそれもある。ある時バーンパー スアンヤーンへ托鉢に行ったら、子供が何人もいて、姉娘が飯を鉢に入れた。普通は菓子やカレーなどがあるものだが、彼らは何もない。小さな子供が鉢に飯を入れると、頭を垂れた。後から誰かが持ってくると思ったので、私は待っていたが、立っていても来ないので、しばらくして顔を上げた。その時は出家したばかりで、

「ルアンピー(若い僧を呼ぶ言葉)。私たちはご飯しか差し上げられないんです。私と妹たちは今日何を食べたらいいかも分からないんです」。母親が死んで、まだ八、九日だった。その時から考えていた。出家して何年もたって、たくさんお金を寄進してもらえる和尚になったら、そういう人達を精一杯救済しようと。貧しい人たちに辛い思いをさせたくない。そう決心してずっと願っていたら、救済できるようになった。今では何万人もの飢えた人たちが、飢えや貧困から抜け出すことができ、何とか快適に暮せるようになった。

司会者 :そうですね。バンチャーさん、若い人達にターン・プッタタートの経歴を紹介していただけますか。もしかすると勉強に興味をもって、経歴を知りたいかもしれませんから。簡単に。

バンチャー :プッタタート師は、名前はグアム、姓はパーニットと言い、母方の姓です。法律で苗字をつけるようになった時、商売をしている家だったことから、郡役所でつけてもらった姓です。母の名はクルアン、父はシエンで、シエンというのは潮州語でセン、知恵、知識という意味で、チャーン(定)から来ています。私が知っている限りでは、元の姓はクォーです。

 師は三人兄弟で、プッタタート師は長男で、弟はタンマタート、元の名はジークイです。ジークイという名の意味が何かは、どこでも聞いたことがありません。私の考えですが、当たっても外れても重要ではないでしょう。ジーというのは二です。クイはギアから来ていて、子供という意味だと思います。二番目の子供という意味でしょう。もしかしたら福建語かも知れません。最後にキムソイという名の妹がいます。キムは黄金、ソイは末っ子という意味です。師は商人でした。

プラ・パヨム :プムリエンに住んでいた。チャイヤー郡プムリエンの人だ。

バンチャー :二十歳の時に出家しました。風俗習慣の出家です。しかし出家して、還俗する予定日の近くに、師は非常に利益があるようにできると感じました。叔父である偉いお坊さんがいたからかもしれません。叔父の助言がなければ、還俗するかと聞けば、師は還俗すると答えたでしょう。しかしタンマを広めたい。還俗するのは、そうすれば弟にも出家する機会があるからです。

叔父は、還俗すれば結婚しなければならないし、商売もあるから、タンマを広めるために使える時間は当然少なくなると、それとなく諭すと、すぐに考えを変えて、それなら出家を続けると言いました。弟、つまりタンマタートさんは、黄衣を着ていなくても、出家僧のようだったからです。

プラ・パヨム :非常にできた人だった。悪徳には手も触れなった。

プラ・ウォー :実際にはターン・プッタタートより前からタンマに興味があったんです。

プラ・パヨン :バーラミー(波羅蜜。悟りの助けになる善)の伴侶。

プラ・ウォー :タンマタート師は、スリランカやイギリスなど、海外のいろんな協会から雑誌を取り寄せて、兄に読むように送っていました。その時はまだ出家していない頃で、少しずつ心に刻まれました。弟は、実際は、タンマでは兄貴分です。

バンチャー :医学生でした。

プラ・ウォー :医学生だったので、良い本をバンコクから兄に送りました。兄は出家すると、タンマの味が忘れられなくなりました。兄が還俗しない決意をしたので、チュラロンコン大学を退学して家業の商売をするために帰郷しました。これは自分を犠牲にする非常に良い手本です。弟は自分の将来に何も求めず、初めの煉瓦のように、兄をその上に立たせ、兄は上に顔を出すことができせました。当時の医学生と言ったら、それは大したものでしたが、兄がタンマの世界で生きられるように、それを捨てて商人になりました。

バンチャー :私たち仏教徒には理想、理念があります。体の一部を維持するためには財産を捨てなさい。命を維持するためには体の一部を捨てなさい。タンマを守るためには命を捨てなさい。これが仏教徒の理想、理念です。

司会者 :ターン・プッタタートはそれからずっと出家したままですね。

プラ・ウォー :長いですね。二十歳の時から。

バンチャー :ちょっと付け加えたいのですが、師は子供の頃から両親の言うことを良く聞く子供でした。「言うことを聞くだけですべて良い」というタンマの項目があります。(もっとも素晴らしい子は、言うことを聞く子)。

プラ・パヨム :強情でないだけですべて善い、という意味だな。言うことを聞く子は一番良い子。師はいつも言っていた。良い子の中でもっとも良い子は、言うことを聞く子だと。

バンチャー :師が出家したばかりの頃と、三蔵を研究していた頃を見ると、取り上げたものがローグッタラタムで、「何物にも執着すべきでない」と「九ター」です。中年期の、非常に教えを広めていた頃は、「空の心」と「働くことはタンマの実践」で、晩年期は「身勝手でないこと」と「他人を愛すことはすべての宗教の教え」の二つを強調していたことだと思います。

 身勝手については、ブッダの時代には、ブッダは「油断しない」を強調していました。私は想像してみるのですが、二千年前には地球は木々で覆われていて、人間は小さな群れになっていて、当時の真実の探求は、油断しないこと。つまり急いで人生を理解し、自然を理解し、真実を理解しなければなりません。しかし現代は六十億人を超えています。そしてものすごい大量消費主義で、森林はほとんど消滅し、自然の危害がたくさんあるので、師は「身勝手ではいけない」と教えています。私はそのように解釈しています。

司会者 :チョンランシーさん、5月27日にスアンモークで開催されるプッタタート生誕百年祝賀会は、何がありますか。

チョンランシー :法施財団がスアンモークでプッタタート週間を24日から30日まで開催します。プラ・クンナポン殿下がプタタートさんについてお話しになったり、プッタタート師との会話のVTRを映します。次の日は子供について話します。若者の道徳は世界の平和という項目に関連して、スラータニーの代表の子供が来て、とても良い行事があります。翌日は「芸術は心を開く」で、わが国の詩人、ナワラット ポンパイブン、アンカーン カンヤーナポンの詩があります。

 27日は齢を嘲笑う日と呼んで、たぶん和尚さんに、齢を揶揄するとはどういうことか、お聞きしなければなりません。その日は「タンマの水でタンマの泥を流す」という説教のテープを流します。プッタタート師を批判する意見に対する説明の講演集です。朝から夕方まで、それと毎朝と毎夕、読経と瞑想の指導を石の庭で行います。27日には弟子の方たちが断食をして師をお祭りします。

司会者 :断食ですか。

プラ・パヨム :それは、師は誕生日には何も口にされなかったので、何もご馳走を提供すべきではないからだ。人間は生まれた日はまだ何も食べられない。しかし誕生日が来るとものすごく食べる。だから師は、それでは誕生日の原理と違うと言われた。

チョンランシー :師は1966年以降、ご自分の誕生日を、「齢を嘲笑う日」と呼ぶようになりました。

司会者 :齢を嘲笑う日ですか。

プラ・パヨム :それは、失敗したこと、いろんなこと、あの人は私のことをあんな風に言っている、と笑うんだ。晩年は齢を笑うのを止めて、齢を止めると言った。死が近づいたら齢を止める方がいい。

バンチャー :齢を止めるについて、ちょっと言わせてください。1987年、師が八十一歳になった年ですが、その前の八十歳までは、スアンモークにいろんなものを持ちこんで誕生祝いが催されていました。その翌年、大勢の弟子達がタンマ船に集まって会議をしていました。舟の形を模した建物で、タンマ船と呼んで図書館や会議室として使っていました。

私も出席していました。私は写真を撮るのとテープで録音をするのが好きなので、その会議の様子を録音していました。みんなが会議をしていると、師の足音が近づいて来ました。当時はあまりお元気ではなかったのでしょう。師はゆっくり歩いて来て、そして黒板を全部倒してしまわれました。伝記の本の製作を初め、師は、「する必要はない。自分で書く」とおっしゃっいました。

タンマコート(講義と著作を集めた全集)を何十冊分もコンピューターシステムのCDに収める企画は、「コンピューターは盲目の鬼だ。私はいらん」と言われました。CDを作れば、人々がそれを見るために、お金を稼いでコンピューターを買わなければならないから、大量の資金が海外へ流出します。

それに「何も儀式はいらない。近々ブッダにお目に掛かるのに、プッタタートのうつけ者が、大金を集めて誕生会を開き、祝宴をしていると言われ、頭から水をぶっ掛けられてしまう。ブッダに拝謁する面目もない」と言われました。

 それで黒板をみんな倒してしまわれました。それから師は「齢を止める」という説教をしました。晩年には「齢を笑う日」の代わりに「齢を止める日」と呼ぶようになり、「スアンモークに来なくてもよい」という謎を言われました。(つまりスアンモークは心の中にあるという意味)

プラ・パヨム :今年、理解してもらいたいことがある。スアンモークとしては、人々にスアンモーク一ヶ所だけに来てもらいたくないという考えで一致した。そういうわけで、全国で開催されることになり、公的ないろんな場所、いろんな大学、ショッピングセンター、デパート、プッタモントンなど、国中で展覧が催される。

だから日程が合わない人、スアンモークが遠すぎて、経費が掛かりすぎて行けない人は、各大学や団体が開催する催しに行くことができる。スアンケオ寺でも開催する。今年はスアンモークに集中しないように、こちらでも開催するように指示があったから。そうしなければプッタタートの祝賀会は混乱するから、今年は分散するように言われた。

司会者 :スアンケオ寺ではいつからですか。

プラ・パヨム :27日、28日の二日間。展示と講演、テープやCDを流して、一番重要なのは、プッタタート百年の本を誰にでも配布する。

チョンランシー :各地での催しについてはお尋ねになってください。政府もプッタモントンで26日から28日まで三日間開催します。タンマの本の祝いと師の業績を紹介する展示があり、曲石座も造られます。

プラ・パヨム :毎回、充実した展示だ。

チョンランシー :どうして曲石座なのかと疑問に思われる方、スラータニーのスアンモークに行かないなら、プッタモントンへ行ってターン・プッタタートの経歴の展示を見ることができます。

プラ・パヨム :北部ではチエンライのメーファールアン大学で開催される。

プラ・ウォー :パヤオでもあります。スアンモークの模型が造られ、八千坪を超える広さです。

プラ・パヨム :スアンモークにいたことがあるマハーカチットの所は、どこでも開催する。今年は三百ヵ所にはなると思うが。

チョンランシー :いろんな団体も、それぞれ催しがあると思います。スッカパーブチャイ(出版社)も、全国の教育施設で一年間展示を催します。たぶん誕生月だけでなく一年間。

司会者 :一年間ずっとですか。

チョンランシー :デパートでも、です。さっき和尚さんがデパートのことをおっしゃっていましたが。

司会者 :デパートのことも学校のこともおっしゃっていました。もし最近の若者の問題、麻薬パーティーや性の集まり、贅沢で傲慢な子供達に、プッタタートの教えを使うなら、ウォーさん、どんな項目をお選びになりますか。

プラ・ウォー :私はサティという短い言葉を思い浮かべますね。サティだけです。それと私が好きなもう一つの言葉、英語の strong 、強いという意味ですが、「サティ ストロング」。ストロングという言葉をタイ語として読めば、何かをする時、熟慮することです。

しかしサティ ストロングは、若者に教える時にはプッタタート師がよく使った「俺はお前がいらない」という言葉を伝えます。こういうのは本当の「俺、俺のもの」で、元の言葉は非常に意味深いです。私たちはもっとサティについて語るべきだと考えます。若者ばかりでなく、タイ社会のどの部分も、今はサティに欠けた社会です。

プラ・パヨム :王様は、タイ人がサティを使うのは一日のうち八パーセントもないとおっしゃっている。ほとんど使っていない。

プラ・ウォー :サティを使うのは少なくて、考えることは多いです。

プラ・パヨム :お金を無駄使いして、サティを鈍らす水を飲む。

プラ・ウォー :今は、食堂へ行って料理を注文すると、「飲み物はコークですか、お茶ですか、ペプシですか」と聞きます。私が「水」と答えると、頭のテッペンから足まで見ます。水が一番良いです。でも彼らはトレンドじゃないと見ます。私たちはサティがあるので、流行やブランドや宣伝に夢中になって消費しません。私たちは水を飲むべきだと言いたいですね。しかし私たちは、時代遅れでトレンドでないと見られています。

 だからもしサティがなければ、みなさん、最近の若者はどうなるかを考えて見てください。私はある学校経営者に会ったことがあり、父兄が、電話代が授業料よりも高いとこぼすそうです。本当でしょうか。こういうお金は本当に必要なのでしょうか。今の子は一人一つ携帯電話を持っていますね。あんなの必用ないのに、なぜ使うのか。それは友達社会に参加したいからです。「あなたにサティがあれば、不要なお金を使わなくても良い」と諭せば、使わなくなります。サティだけですべてを網羅できます。

 ブッダは最期の言葉として「みなさん、不注意に陥ることなく自分の義務をしなさい」と言われました。不注意に陥ることなくという言葉は何でしょうか。サティです。サティを使えば、知恵がたくさんあっても、その知恵は資本家に使われず、法律に詳しくなっても、無暗やたらに政治家に使われません。

 だから私たちが持っているすべてのものは、サティをプラスすれば、鞘のある鋭い刃物、善人の掌中にある銃と同じで、誰も攻撃しないで、知識があればあるほど役に立ちます。しかし知識がたくさんあってサティに欠ければ、大きな汚職をします。ラーマ五世は「これからの教育は、宗教教育をもっと復活さなければならない。でなければ頭が良ければ良いほど不正をする」と言っています。

百年以上前の国王がこう言っています。今は顕著で、頭が良ければ良いほどずる狡賢いです。それは何か、それはサティに欠ける知識、サティに欠ける民主主義、サティに欠ける消費、サティに欠けるマスコミ、サティに欠けるインターネット、サティに欠ける印刷物なので、すべて煩悩の要求に応えるために利用されます。

プラ・パヨム :サティに欠けると言われるインターネットだが、それで騙して人を殺させ、死体をバラバラに切断させることもできる。師はこう言っていた。「これは道徳を食う鬼にもなる」と。今インターネット、コンピューターのウェブサイトは、乱れきっている。師が言われたことは、考えも及ばなかったが、「道徳を食い尽くす鬼」と言っていたのは、何年前くらいだったかな。良く言っていた。二十年くらい前だと思うが。

プラ・ウォー :テクノロジーが入ってきた頃でしょう。

プラ・パヨム :そうだとも。

プラ・ウォー :1985年か86年じゃないですかね。みなさん、師はコンピューターについて「盲目の鬼」と言っています。どういう意味かというと、盲目とは、誰にでも仕えるということで、悪人が持てば悪人に仕え、善人が持てば善人に仕えます。今はビデオの映像をインターネットで送ることもでき、コンピューターは良くない映像かどうか判別できません。誰にでも仕えます。だから師は、「盲目の鬼」と言いました。もし目があれば、善人にだけ奉仕するはずです。

プラ・パヨム :信じられん。師が、「コンピューターは道徳を食い尽くす」と言っていたなんて信じられない。社会の幸福をめちゃくちゃに食い潰す。それに師はこうも言っていた。「発展は破滅へ向かう」と良く言っていた。これは真実を突いている。まだあまり発展していなかった時代には破滅はなかったga,今は発展したから、英語の教師が女性を騙して、切断して鞄に詰める。破滅だ。

司会者 :最後に和尚さん、お坊さんたちに向けて良い教えの項目はありませんか。最近はニュースが多いので。住職や地区長(僧の役職)のような上に立つ人でも、女性と同衾したというニュースがあります。

プラ・パヨム :これは、あなたがプッタタート(ブッタの奴隷)なら、ブッダに仕える人なら、煩悩の奴隷でもなく、淫欲の奴隷でもない。彼らはブッダの奴隷でなく、欲望の奴隷で、ブッダの仕事に仕える気持がなく、反対に欲望に媚びてタンマを追い出す。プッタタートではなく、カーマタート(愛欲の奴隷)です。

プラ・ウォー :愛欲の奴隷。煩悩の奴隷。

司会者 :はい。それでは、以上で今夜の、ウィサーカ祭の夜の「コム チャット ルック」を終わります。今日のターン・プッタタートの教えが、多少でも視聴者のみなさんの日常の利益になることを願っています。ご列席のみなさん、本日はありがとうございました。視聴者のみなさん、ご覧いただき、ありがとうございました。

 

            註: 九ター

   アニッチャター      不確実であること。無常

   ドゥッカター        苦があること。苦(堪え難いこと)

   アナッター         自分でないこと。永遠の自分はないこと。無我

   タンマディッター     自然に当たり前にあること。

   タンマニヤムター    支配する自然の法則があるものであること。

   イタパッチャヤター   縁による発生と消滅の法則。因果律。縁生。

   スンヤター         自分の意味がないこと。空。

   タターター         そのようになり、他にはならないこと。真如。

   アタムマヤター     すべてのタンマを変化させられないこと。(対として関わらないこと)

           (俺は、お前は要らない)

 

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