後書き 





 この「学生のためのブッダの伝記」は、外国のブッダの伝記本の正誤を論評して学習にするために、午後の時間に比丘たちに読んで聞かせたことから、偶然に出来上がりました。比丘たちが毎日、最後まで聞きながら書き留め、それを整理したのが、この「学生のためのブッダの伝記」です。

 外国には、学生のため、あるいは青少年のためのブッダの伝記がたくさんあります。私はそれらを一つ一つ調べ、仏教界で著名なシーラチャーラ比丘(J.F.Mckechnie )という、先ごろ亡くなったばかりのイギリス人が、スリランカの子供たちに読ませるため、あるいはスリランカ人の依頼で一九四一年に書いた本を選びました。

 しかしそれでも、その本の中にはタイ国内で学習している話と違う点が、二十七話もありました。中には私が切り捨ててしまった物もあり、パーリ経典(ブッダの言葉である経)やアッタカターと一致するよう修正した部分もあります。わが国で聞いたことと違っていても、耳を傾ける価値のある理由があり、海外では受け入れられていて、外国のブッダの伝記には必ずある話は、原文のままにした部分もあります。

 原文のままにした話は、幼少時代の始耕式の話、生贄にするために連れていく羊の群れの話、菜種の話、羊飼いの少年が乳を献上した話、歌姫が唄を歌った話、琴糸を張りすぎる話、初めにラージャガハへ行った時のシンガーラの話、ウタジという幼馴染が先に帰る話、アングリマーラが殺した人の数が千人でなく百人であること、スークラマッタヴァ、つまりキノコの一種の話、寝台でなく地面の上で涅槃に入ること、アーナンダがクシナラへ行くとき、比丘を何人か伴っていたことについては、以下のように熟慮判断しました。


 始耕式の時初禅に入る話は、パーリ・菩提王子経の中には、非常に静かで心が明るかったことがあると、過去を明瞭に思い出して話しているだけで、年齢が幾つかを示す根拠はありません。しかし熟慮して見ると、確実に記憶できる年齢でなければならず、よく信じられているように五、六歳の子供ではないと思われます。

 シーラチャーラ比丘は、青年時代の前の少年時代の話としています。十二、三歳くらいが妥当と思うので、そのままにしました。パトムソムポーディ(ブッダ伝に関する経)には七歳前とあり、幾つとは明示していません。一般には五歳くらいと信じられています。

 生贄に連れて行く山羊の話と、死んだ人がいない家の菜種の話は、外国の伝記にある話で、タイにはこのような話はありません。ブッダの徳行を強調する目的であり、害にはならないと判断し、そしてこのような状態、あるいは同党の重みある話は、アッタカターのどこにでもあるので、そのままにしました。

 羊飼いが羊の乳を献じる話は、タイで聞いたことがある、天人が王子の命を救うために特別な食べ物を王子の口へ入れた話の代わりであり、歌姫は、天使、あるいはインドラ神が王子の意識を喚起するために演奏をした話の代わりです。外国のブッダの伝記には神や天人の話は見られず、自然な話ばかりで矛盾がなく、あり得る話で、素直に読めるので原文のままにしました。


 シンガーラ青年の話は、いつの時代のことかを示す確かな根拠はありません。もしかしたら、この本にあるように初めてラージャガハへ行った時ではないかもしれません。しかし原書のままにしたのは、それを覆す根拠がないことと、原著を尊重する意味からです。元のままにしておいても、何も害はないと思います。著者はブッダが大悟した直後に、世俗で役に立つレベルの宗教も説いたということにしたかったのかもしれません。

 幼なじみのウタジが先に帰るところは、タイのパトムソムポーディと違っています。タイでは、ウタジは出家して空を飛んで帰ったのであって、普通の人のように行ったのではありません。その後もカビラバスツと、毎日十六キロづつゆっくり歩かれているブッダとの間を、毎日の情報を知らせるために飛んで行き来しました。私は出家せずに帰る原作の話の方が良いと思います。

 アングリマーラが持っている指の首輪が百本だけで、殺した人が九十九人だけというのは、著者は恐らく、千人と言うのは多すぎると考えたのでしょう。誰でも千人にならないうちに、誰かに殺されてしまうと考えます。九十九人のほうが妥当です。それに九十九人でも、十本の指を繋げば九百九十本になり、十分な長さで、千本の指と言えます。

 その上一般的なアングリマーラの絵を見ると、百本が適当だと思います。千本では長すぎて地面にずってしまいます。このような話はパーリ経典にないので、何が確かと言うことはできませんから、直さずに理論的に合っている原書のままにしました。私も、百人殺して千の指を取るという方を採用します。


 キノコの一種、スーカラマッタヴァは、鍛冶屋のジュンダが献じた料理で、ブッダだけが召し上がり、他の比丘たちが食べさせようとなさらず、それで病気になり、激しい血便をなさいます。スーカラマッタヴァとは何でしょう。私は長いこと調べて来ましたが、一般に訳されているような子豚の肉と、完全には納得できません。

 食べては美味ですが、うっかりすると危険な、何か変わった植物の一種かとも考えます。どこの国、どの民族にもそういったものがあります。なぜ完全に納得できないのか、これから機会を探して調査研究することにして、ここでは原作のままにしました。

 パーリ・アッタカターの大涅槃経でも、はっきりとは分かりません。最後の解説者であるブッダゴーサ師は、若い豚の肉と個人的見解を示しています。しかしこの他にも、以下のように付け加えています。アッタカターの先生方は又別の説明をしていて、ある人たちは未熟な米と他の何かで作った菓子だと言い、またある人たちは、ジュンダがブッダに献じるために作った、薬膳か長寿薬のような物ではないかと言います。

 つまり三つのグループのアッタカターチャーン(編者)たちは、スーカラマッタヴァを自身で見たことがないということです。アッタカターが書かれたのは八百年から九百年後ですから、アッタカターのすべてが推測なのです。パトムソムポーディの本は、スーカラマッタヴァとは、五種類の乳製品で作った菓子だと言っています。(プラマーヌチット局版パトムソムポーディの、『パーリ語パトムソムポーディ詩歌』)

 また別の角度から考えて見たいと思います。五百人の僧にご馳走するだけの豚肉を急に求めることは、このように小さな街の市場ではできません。自分で殺せば禁に触れ、ジュンダが肉屋に殺させたと言ったとしても、禁に触れます。ですから、動物の肉ではないと考えられます。パトムソムポーディを書いた人はその点を考慮して、アッタカターの二番目を採用し、五種類の乳製品で作った菓子としたのかもしれません。

 もう一つ、パーリ経典には「ジュンダは何種類もの手の込んだ料理と果物と、そして十分なスーカラマッタヴァを準備した」と、明記されています。スーカラマッタヴァが豚肉なら、手の込んだ料理という言葉に含まれるはずで、まだ他に「十分なスーカラマッタヴァ」と分ける必用はありません。

 「そして」という言葉は、スーカラマッタヴァが、手の込んだ料理でも果物でもない特別な物だということを表しています。だからたぶん豚肉ではないでしょう。獣肉を供えることに触れないとすれば「手の込んだ料理」という言葉に含まれる訳で、どうして「スーカラマッタヴァも」と言わなければならないでしょうか。

 もう一つパーリ経典には、ブッダは、他の比丘に提供しないようジュンダに禁じたと明記されています。消化が悪いからかもしれません。若い豚の肉ならこのようには言われないでしょう。通常子豚の肉は消化が良い物です。だからスーカラマッタヴァは何か消化の悪い物で、栄養的には何もなくて、ただ珍しいから食べるような物ではないかと思われます。

 結局、パーリ経典とアッタカターを調べてみると、それは普通の豚肉とする根拠は何もありません。

 言葉を調べて見ると、パーリ語の先生と言わずただの学生でも、スーカラマッタヴァという言葉は、若い豚ではなく、「豚にとって柔らかい」あるいは「豚にとって甘く美味い」と訳しています。言葉の形と接合ではそういう感じがします。西洋の翻訳者は一般的にこの言葉を「豚には柔らかい」とか「豚には甘い美味い」と訳し、「若い豚」と訳している人たちを嘲笑しています。マッタヴァという言葉は通常名詞として使います。

 その後学者のグループが、現在でもスーカラマッタヴァ、あるいは多少訛って呼んでいる地下のキノコがあることを発見しました。言葉の意味は同じです。それで「これはキノコに違いない」と確信しました。(これに関しては非常に長くなるので、また別の機会に判断してお話しします)。

 西洋の学者たちは、ブッダゴーサ師やアッタカターの著者が言うように、若い豚や菓子や薬だとは誰も信じません。地下にあるキノコの一種だという結論を全員が支持し、ここ二十年くらいはそれが標準になっています。それ以前は同じように豚としていました。

 以上のような理由で、私は豚と信じる気がしません。しかし自分自身で調べる機会がないので、それは何か確実なことは分かりません。それでも、豚というよりはむしろ植物の一種、根か球根か地下のキノコのような物の一種と信じることに満足じています。作者がキノコの一種と言っているので、私は元のままにしておきました。興味のある人が今後も力を合わせて探求することを期待します。


 涅槃の床を地面に作る話は、パーリ経典大涅槃経とまったく違っている部分です。パーリ経典は、二本のフタバガキの木の根元に、低い(二十センチ以下)ベッドを作ったとはっきり言っています。ここで考えなければならない問題は、どこからベッドを持ってきたかです。

 パーリ経典では言及していません。しかしアッタカターは、そこを利用していたマッラ国の王たちが昼寝用に使ったベッドを、庭園内から持ってきたと言っています。マンダラサーラー(壁が無いか、あっても低い壁だけの東屋)がどこにでもあるのに、なぜブッダはそのサーラーの中に涅槃のベッドを作らせなかったのか、ということについても、そこへ到着したのは日没後だったからと明記してあります。

 もう一つ考えられる、あり得ると思うことは、非常にお疲れになっていたので、サーラーのある庭園の中へ入られず、入り口の門の近くに作らせたのかもしれません。シーラチャーラ比丘が何をもってパーリ経典や他の経典でも知れ渡っているベッドを作る話を信じなかったのか分かりませんが、彼の心情を尊重して、元のままにしておきました。しかしここに反論を記しておきます。

 もう一度熟慮して見ると、庭園の昼寝用の低いベッドの上と地面の上とでは、地面の上の方がブッダの心情にふさわしく、賛同できます。古いチベットの大乗の人が信じているブッダの伝記には、途中で休む時でも、この沙羅の庭園でも、Couch という言葉がどこにも使われています。どこにでも持って行く引っ張る物があったことを表しています。


 アーナンダが黄昏時にブッダに命じられて、クシナラーの王たちに一人で知らせに行く話は、タイのパーリ経典には「アトゥティヨー」、つまり他の人はいないとあります。しかしスリランカのパーリには「アタタトゥティヨー」つまりもう一人いたとあるので、二人で行ったことになります。

 パーリ(ブッダの言葉である経)がこのように食い違ってしまっているのですから、誰かと二人で行ったという方が正しいように思います。もう日が落ち掛かっている時刻の上に、戒律から言ってもそうあるべきです。五百人の比丘がいたとしているのに、アナンダが連れを伴えないことはありません。私はこの考えを信じ、元のままにしました。


 次は原作のままにすることはできないので、パーリやアッタカターやその他の理論に合うように修正した部分です。それはアーラーラ カーラマが教えたのが非想非非想処で、ウダカ ラーマプッタが教えたのが神通力となっていること、スジャダーという女性が大悟の何日も前に食事を献じたこと、到着した日にカッパワッタナ経を説いて法輪を見せず、後日になっていること、ヤサが悩みがあって偶然来たのでなく、ブッダに拝謁するために来たこと、ヤサの父親がその時に阿羅漢になったこと。

 ラージャガハに到着すると竹林精舎に滞在しました。ラッティワンはありません。ピムピサラ王がダンマを見たのは到着した日ではなく後日です。ブッダの日課のほとんどの部。、サキヤ族がアジャータシャトル王(ヴィドゥータバ王子にではなく)に滅ぼされたことです。以上の部分は次のように熟慮し判断しました。

 アーラーラ カーラマが教えたのが非想非非想処で、ウダカ ラーマプッタが教えたのが神通力となっている部分は、パーリのマッジマニカヤ(中部)には、最初の人は無所有処を教え、二番目の人は非想非非想処を教えたと明示されています。

 私はマッジマニカーヤ(中部)のパーリを信じるので修正しました。いろんなアッタカターもそう言っていますし、一般的な理論もそのように現れています。ウダカがラーマの子供ではなく弟子になっている点は、うっかりしたのだと思われるので、一般に知られているように修正しました。

 スジャダーが特別の料理を供えたのは何時なのかという問題は、アッタカターにある、大悟の前日というのを採用しました。パーリには名を挙げたこの話はありません。大悟の前日托鉢に行くと、大悟した日と同じくらいたくさん貰ったとありますが、スジャダーとも誰とも名前はありません。アッタカターの方が話になり、そして一般に知られているので、そのように修正しました。

 法輪を表したのはいつかという問題は、律蔵マハーワッカのパーリで言っているのは、五人の修行者と会った時のように聞こえます。ブッダはもう大悟したのですから。しかし著者は何時とも言っていません。著者がどう考えていたのか分からないので、私ははっきり修正し難いので、後で判断するために元のままにしておきました。

 ヤサが意図して来たのか、偶然やって来たのかは重大な問題ではないので、どちらでも良いです。しかし私は偶然の方を信じたいので、偶然に修正しました。父親が阿羅漢になって出家したというのは、マハーワッカのパーリに従って、ダンマが見えただけで、在家にしておきました。たぶん著者の勘違いだと思います。もしかしたら急いで書いたので、このように重要でない部分を調べなかったのかもしれません。 

 ラージャガハへ行ってすぐに竹林精舎に滞在した話と、ピンピサラ王が何日も後にタンマを見た話は、これもあまり重要と思わなかったので、著者がうっかりしたのだと思います。マハーワッカに合わせて修正しました。

 ブッダの日課に関してはパーリには書かれていません。アッタカターにはいろいろあって、幾つもの系統があるようです。後世に書かれたものは、その時代の作者の考えによって様々に創作されています。私はすべての出典を調べて整理し、最も理論的に推測しましたが、原作の修正を最小限にしました。

 サキヤ族がアジャータサトル王によって滅びたとういう話の出典は見たことがありません。アッタカターにはヴィトゥーダバ王子が怒りで攻撃したので、アジャータサトル王の名は絶たれてしまったとあるだけです。たぶん戦争で破滅したと、つまりヴィトゥーダタ王子の攻撃とそのカンマで、どちらも滅亡したと述べておくのでしょう。


 私が切り捨てた部分は、初期の比丘六十人を布教に出した時から凶暴だった、スナーパランダ地域の布教を志願した比丘がいたという話、ラージャガハに行った時から、両親の許可なしには出家を認めないと規定した話、そしてストーダナ王が象の列を組んでブッダを迎えた話、ヤソーダラ妃が輿に乗って街の外まで迎えに行った話、テーヴァダタが高弟(サーリープッタとモッカラーナ)より先に出家した話です。

 しかしこれらのすべてが著者の一方的な間違いという訳ではありません。このような話は、タイ国内で学習するには何も問題はないと思いますが、三蔵のパーリやアッタカターや確定している論理と一致させるために、念のために切り捨てました。

 いずれにしてもすべての判断項目は、学生のみんなさん、引き続き複雑な真実を探究しなければならないものと捉えてください。



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