(K.S によるブッダダンマの道の山の記録)1



ブッダダンマの道の山について
 私は、今一部の仏教教団員が強い関心を寄せている「ブッダダンマの道の山」講義内容の、疑問点について、何日間もたくさん質問をする機会を得ました。私が記録した知識は、興味のある方にとって非常に利益になると感じ、そして多分、ターン・プッタタート比丘に直接質問する機会があり、このように知識を追加できる人は何人もいないと思うので、この記録を編集長へ送り、学習者の便宜のために、今までの講義と一緒に一般の関心のある方の役に立てていただくようお願いしました。私が思いつくままに質問した、質疑応答の記録です。


問 : 猊下の「ブッダダンマの道の山」の講義は、いろんな反論や非難の記事を書く人がいましたが、猊下は反論をお書きにならないのですか。お友達や弟子たちが反論を書くのもお許しにならないと聞きました。

問 : 猊下の「ブッダダンマの道の山」の講義は、いろんな反論や非難の記事を書く人がいましたが、猊下は反論をお書きにならないのですか。お友達や弟子たちが反論を書くのもお許しにならないと聞きました。

聞いた人は、自分の権利と利益を護るために、どのように反論も非難もできます。満足がいくようにすればいいです。私の義務は、講義を頼まれたら、彼らが聞くべきことを聞く機会にできるよう言うだけです。彼らが賛同しなければ、無理強いする義務はありません。彼らが反論しても、挑んで来ても、彼らと闘う義務はありません。

 それに反論者に抗弁する義務がないと言うのは、あなたも良く見れば、私が壊したいヒマラヤ山は、いま気付かずにどんどん崩壊していると見えます。見えないですか。それで良いので、それ以上する必要はありません。もし私や友達や、あるいは弟子と自称する人が誰かとケンカをすれば、タイの古い箴言と同じです。あなたもだいたい知っているでしょう。しかし私が満足しているのは、山は自然に崩壊しつつあることです。

問 : 猊下はコミュニストに頼まれて、人々に宗教を捨てさせるために「ブッダダンマの道の山」の講義をしていると言って回る人がいます。これについて猊下はどうお感じになりますか。 

答 : 大僧正のお住まいから二百メートルも離れていないすぐ傍で、三宝を軽視する講義をする勇者と仮定してもらって有難いです。初めから今まで何年もしている「ブッダダンマ」の講義はいったい何か、あなたが自分の目で見てください。

問 : あの講義は過激で、布施をする人の信仰心を減退させると反論する人がいます。

答 : あれは過激ではないし、信仰心を減退させもしません。風船のような徳を望む類の信仰から、刀のような徳、あるいは善を望む信仰に変えさせたいだけです。それにもう一つ。あなたも良く見てください。もし本当に彼らの信仰が減退すれば怒りません。彼らの信仰を維持するために私を罵ったり、一斉に否定したりしませんよ。

 私は、仏教は二つのグループの人のために二つのレベルがあると見ます。つまり「ヒヨコ」である人たち、引き続き囲いの中にいなければならないグループと、翼が十分強いので「飛んで行くべき」人たちです。タイは後者への関心が、他の国より遅れています。今ローグッタラについて話すと、日本や中国の学生界は、タイより関心を持っています。(特にジャーナ宗又は禅宗)。

 もう一つ、本当の仏教は涅槃の話、世間を脱す話、煩悩執着が絶滅して輪廻転生しない話です。私がこの種の仏教の話をしなければ、何の話をするんですか。布施や積善の話は、どの宗教にもあります。私は、私たちは少しでも完璧に向かって前進しなければならないと見ています。二三人でも非常に素晴らしいです。関心のある人は何人もいないとあなたも見ていますが、いないより良いです。

 もう一つ、ブッダ協会は個人的な協会で、進歩的な学生だけです。頼まれてこの種の講義をそこでしたので、何人でもない人たちの個人的な勉強と見なします。それに法施会の佛教新聞はね、どこの大物も関心を持って話題にする、学んで進歩したい少数派だけの個人的な新聞です。その内容は、通常天人たちにとって苦い薬なので、一般大多数の人を支配することはできません。

 あなたのように言えば、タイの国内には恐くて布施を我慢する人ばかりで、積善をする人が一人もいなくなり、そして前進することに尻込みします。もう一つ、真実を言う勇気がなくなるんじゃないですか。私はそこまで恐れるべきではないと考えます。そしてブッダ協会や佛教新聞を、学習して進歩したい人たちの個人的な法座(説教者が座る台座)と認めないなら、この種の話でタイの仏教教団員の基礎を支えるために、どんな場所を使うべきか教えてほしいです。

問 : それでどうして猊下が罵られるのですか。

答 : 仕方ないです。考え方の違う兄さんが、彼の父親の頭を蹴っているかもしれません。私のことばかり言わないでください。

問 : すみませんが、私の疑問を質問させていただけますでしょうか。否定的な角度から取り上げても宜しいでしょうか。

答 : 疑問に思って本当に知りたいのなら、否定するためにワザと訊くのでなければ、何でも結構。知りたい人の質問にできるだけ答えるのは、ブッダの奴隷である者の義務であり、否定や争うのは義務外です。しかし答は、私が話したいろんな講義の中にあるので、私はたくさんの質問には答えないと理解しなければいけません。彼らは読むのが億劫で重複して質問して時間を浪費させます。それに知りたいより、自分の能力をひけらかす機会を探すために質問します。あなたの質問に、そのようなものが観察して見えたら、静かにお引き取り願わなければなりません。

問 : ありがとうございます。私は考えを妨害する問題ばかり抱えているので、このような機会をお与えいただいただけでもご寛大です。そして私を、進歩に関心がある人たちの一人に数えてくださいました。双方の話全部を聞いて、堂々巡りが始まってしまいました。お邪魔して、どんな種類のブッダ・プラタム・僧がヒマラヤなのか、手短に質問させていただきます。

答 : 「自分がある」とか「自分だ」「自分のもの」「自分のものにする」という信仰の威力による愛の基盤である、その人の見方によるあらゆる種類のブッダ・プラタム・僧です。

問 : 「その人の見方による」というのは、どう重要なのですか。猊下の講義のブッダ・プラタム・僧についての、どの部分にもあります。

答 : それはもう重要です。読んで見つけた人、あるいは観察した人は大笑いです。しかしたくさんの人が観察しているかどうかは分かりません。この言葉は、その人が自分で勝手に作り上げたブッダ・プラタム・僧だと説明するためにあります。色やいろんな星や、あるいはブッダの体や、まだ千年ちょっと前に作られた仏像なども含まれます。更にブッダ・プラタム・僧の功徳も、好んで厄避けのお守りとして、あるいは自分の利益になるように祈願するように、実体のあるものとしてずっと信仰するものではありません。

 他の物と同じサンカーラタム(有為のもの)にすぎないので、手放す段階になったら、全部下ろさなければなりません。少なくない仏教教団員がそれと知らずに、呪術でも何でも、仏教ではないものを仏教として受け入れています。たとえば魂の方の呪術を信じる人は、(その人の)ブッダの魂が今でもあると信じて、すべての仕事が上手く行くように魂を招きます。信仰の症状を熟慮して見れば、あなたも、その人の見方によるブッダ・プラタム・僧が、一種類本当にあると見えます。

 人はとりあえず休まず祈願するブッダ・プラタム・僧を信仰しなければならず、それから少しずつ本物になり、最後にその人はブッダと同じように解脱します。そうすれば本当の、つまり信仰の基盤でないプラタムと僧も含めたブッダが、完璧に見えます。そして信仰は全くなくなります。なぜなら信仰が無くなった後で、本当のブッダ・プラタム・僧が見えるからです。それまではとりあえず信仰します。既に信仰しているので、信仰するよう教える必要はありません。後は前進するよう、信仰を捨ててすべてに信仰を無くすよう、あるいは信仰しなくなるよう教えます。

問 : ではなぜ猊下は、彼の(信仰)をヒマラヤとお呼びになるのですか。彼はどうしようもないほど怒り、あるいは残念に思っています。

答 : それは、その人の見方によるブッダ・プラタム・僧は、ヒマラヤのように彼の行く手を塞ぐからですよ。私は何も彼を非難していません。ヒマラヤに囲まれていることは、それら「ヒヨコ」である人たちには善いこと、正しいことです。他の何に囲まれているより良いです。まだ彼らがそこに居たいなら、あるいは(涅槃に)行きたくないなら、際限なく居続けることができます。それにそれらの生き物にとって安全です。しかし行く生き物にはね、どうしたら行けるか考えなければなりません。

 もしその人が何かを作ることに夢中になって、そのように抱きしめているなら、正しくは、まず「何物も、自分と信じるべきでない」というブッダの教えで行動しなければなりません。そうすれば、ヒマラヤの崩壊である信仰が瓦解したものである、何と呼ぶのもふさわしくない本当の「ブッダ」が見えます。なぜならすべての規定より上にあるからです。

 ブッダは、戒・サマーディ・智慧は、舟やイカダの価値しかないと見ています。つまり旅をしている間だけ依存し、それから捨てて上陸しなければなりません。ブッダ・プラタム・僧の信仰は、信仰が無くなる段階まで順に変化します。これらの人たちは、どっちを見ても「自分」という信仰ばかりで、その周りにいろんな物があります。それで何と呼んだら、「山」と呼ぶより良いですか。クモなら、あなたの糸は素晴らしく美しく操ることができると言われれば、満足すべきじゃないですか。

問 : 「本来の状態」という言葉に当惑している人がたくさんいます。この平らな近道の実践法を満足して見ている人でも、批判の言葉を抑えられません。

答 : 当惑すればするほど、満足する所です。無駄に当惑しないで、同時に考えることだけはお願いしたいです。本当はこの言葉は、新しい自分を持つよう教えているように聞こえますが、本来の状態と短く説明します。ヴィサンカーラ(無行)つまり加工しないものと呼ぶ代わりに、別の言い方でアサンカタ(無為)つまり何にも加工さないもの、を使います。本来でない状態は加工されたばかりのもの、加工された時にできたもので、幾ら長くても構いません。その加工することは、加工しないもの、あるいは加工されないものより後から生まれたと言うことができます。

 だから作ることから生まれたサンカーラ(作るもの)、別の言い方でサンカタ(有為)、つまり加工されたものは、新しいもので、本来の状態ではありません。このように考えれば、本来の状態であるものを簡単に理解できます。そしてヴィサンカーラ(無行)と呼ぶものを、難しくなく理解させます。(その人の見方による)体・心・徳・善・智慧・ブッダ・僧は、どれも新しいものばかりです。サンカーラ、あるいは縁起の法則で作られたばかりだからです。これらの「新しいもの」を見て、本当に明らかに理解しなければなりません。


 そうすれば作ることに厭きて関心が薄れ、「加工することが無いもの」を早く簡単に発見します。本来の状態という言葉の規定は、よく考えてみれば何も新しいものではありません。つまり加工するより前から存在しているもののことです。しかし本当は、「本来の状態」は「本来」と言う以上で、アサンカタ(無為)、あるいは涅槃です。それには過去・未来・現在はありません。時間より上にあり、時間が捕まえることができる実体がありません。

 時刻を告げるために仮定した基準である、加工するサンカーラではないので、時が、時間の法則が捕えることはできません。だからヴィサンカーラは時間より上にあり、そして過去・未来・現在がありません。しかしここでは、「加工するものであるサンカーラよりも前からある」という意味だけを捉えます。だからサンカーラが加工するより前からある「本来の状態」と呼びます。世俗からの脱出、あるいは向こう側に関心を生じさせるために初めの段階で使い、それから順に登っていきます。

問 : 猊下、これを説明するのは、徒労かもしれませんね。

答 : それは宗教に奉仕する者の義務です。口論せずに、人間同朋を宗教の目標に近づかせる、つまり見ることができる生老病死を超えて壊滅させる、あらゆる方法を探さなければなりません。 問 : もう一語、非常に歓迎されたのは、「これはそれではない」です。彼は、猊下が新しい教義をお作りになったと言います。

答 : それほど巧く作ってくれたのなら、礼を言わなければなりません。しかし公正でなければ、話になりませんがね。私が自分勝手に作ったのではありません。あなた自身で、その講義を詳しく読み直してください。読んで意味が掴めれば、それは大念処経全体の、本当の要旨だと気づくでしょう。何時間もかけて終わりまで唱えて、「これは、それではない」という二三語にまとめることができました。私は最も理解しやすく、最も練習し易く、そして私が最もふさわしいと思います。唱える言葉はすべて、何らかの長々した意味を要約したものだと、あなたは知って仕舞わなければなりません。

 たとえば「プットー」などは、ブッダのいろいろな形態を熟慮した後、心がサマーディで意識できない長い文の代わりに唱えて、簡単に心を意識するために「プットー」とまとめたということを知ってしまわなければなりません。しかし「これはそれではない」は、様々なものを熟慮する指針をまとめました。私たちに生じる形の(具象)ものも、名のもの(抽象)もサンカーラにすぎず、(つまり作られたものであり、消滅して発生して消滅します)、ヴィサンカーラ、あるいは目的の涅槃ではありません。

 涅槃の考えも、考え自体もただのサンカーラ、あるいはマヤカシなので、すべてのサンカーラ、あるいはすべてのタンマ(もの)に飽き飽きする智慧があるようにするために、心は常に反対のものに注目して、これにすぐにサティがあるようにしなければなりません。山にすぎないものを引っ掴まないでください。このようにできるのは、熟達するまで熟慮する練習をした時です。

 それで貪りと憂いの原因である「動物、人物、自分、他人」という信仰を防ぐために、このような唱える言葉にまとめました。念処の手っ取り早い、しかし結果は最高に良い一つの方法を提示したと信じています。好きな人は試すことができます。ヒマラヤになるのを防ぐ物も揃っているので、幾つかの方法のように、山が突出することはありません。このように確信するので、多少難しいかもしれませんが、安全です。

問 : 私は猊下の作品を十以上拝読しています。猊下が、涅槃は心ではないとハッキリと説明なさっていると気付いたのは、最後の講義、つまりブッダダンマの話です。それでも私は、そのように読むことができました。しかし、「猊下は『涅槃は心だ』という原則を捉える派だ」と主張する人がいます。私は猊下ご自身からお聞きしたく存じます。

答 : 私はこのことに関しては、十年以上、絶えず印刷して布教し、いろんな物で言っているような原則があります。涅槃は心ではなく、意でもなく、形でもありません。そして私は「涅槃は名でもない」と言うほどです。私は、「涅槃はアサンカタタートゥ(無為のもの)と誰でも知っているので、アサンカタ(無為)は名である」とアビダンマピダカ(論蔵)にあるようなのは信じません。涅槃が名なら、サンカーラ(行)でなければなりません。あるいは原因であり縁であるものによって作られなければなりません。

 信じないなら、アビダンマピダカ(論蔵)三十四巻、三百二十八ページ、パッバ七四四を見れば、「ヴェータナークカントー サンヤークカントー ヴィンヤーナクカントー アサンカター チャ タートゥ イタン ヴッチャティ ナーマン」とあります。私は、「名」と言うものには、作る原因と縁があると見なすので、理解できません。縁起で、「ヴィンヤーナパッチャヤー ナーマルーパン 識が縁としてあるから、名がある」と言っています。そしてもっと奇妙なのは、同じ巻の三〇三ページ、パッバ七六七で、アサンカタタートゥは心ではないとハッキリ言っています。

 同じページのパッバ七六八に、アサンカタタートゥは意ではないと言っています。アビダンマピダカを信じれば、アサンカタタートゥあるいは涅槃は心ではなく、意でもないが名であるという意味になります。後でパーリ語のすごく高い段を持っている人に、どうしてこのように分かりにくいのか聞いてください。

 その方が、自身の高いパーリ語の知識に違わなければ、「タイでは、名とは心であり意であると教えています」と、あなたに主張するはずです。一方私は、ここでも「アサンカタタートゥ、あるいは涅槃は名だ」と言うアビダンマピダカを信じないと、主張しておきます。その方がアビダンマピダカを「アサンカタタートゥとは涅槃」と捉えない場合以外は。

問 : ここで、私たちの三蔵はどれくらい信頼されるべきか、質問させていただいてしまおうと思います。

答 : 「どんな教えも、それがピダカ(三蔵)にあるからという理由で正しいものだと信じてはいけない」という、カーラーマ経を順守するようお願いします。三蔵は追加したり削除することができ、そして苦難の道をたどり、絶えず凡夫の手を経て来たものだからです。そして更に、上記のブッダの言葉の本当の目的は、たとえ三蔵のすべてがブッダの口から出た純潔なものであったとしても、、自分が信じようとする教えのどの言葉も、三蔵にあると言う理由だけで信じないようお願いします。ブッダは自分で明らかに見える道理を、それは本当にそのようになると説いています。

 ブッダはこの項目について、ブッダと二人きりで四聖諦について会話している時、「世尊のお言葉でも私は信じません。自分自身で見たことを信じます」と返したサーリーブッダを褒めています。すべてのサンマーサンブッダが、言っていることには本当にそのような理由があると、自分を信じることなくテキストを信じても、何の利益もないと見ています。伝記や三蔵に、貪・瞋・痴は善くないものだから捨てるべきだと書いてあっても、自分で貪・瞋・痴を知るまで、そして自分の智慧で本当に善くないとハッキリ見えるまでは、信じる必要も、真実と捉える必要もありません。

 この教えを守らない人は、ブッダの足跡を追って登って行くにふさわしくありません。あるいはまったく登れません。ガレキの山や草藪の中に入り、そして山の周辺に夢中になり、そしてどこかの角で停滞しているに違いありません。あなたはさっきから、抽象的なことしか見ていませんが、自分が本当に明らかに見た本当の話を捉えなければ、原則にすることはできません。言葉の問題ではありません。三蔵のほとんど、あるいはほとんどすべては、ブッダが語った言葉でなくでも、浮浪児が言っても、それ自体に自分が満足して信じる際立った理由があります。

 ブッダは「村の井戸で水を汲んでいる庶民の女が言っても、滅苦ができる明らかな原則があれば本物と見て、ブッダが言った言葉と同じと見なさなければならない」と言っています。タンマは本物で、誰でも話すことがで、そして過去・現在・未来、いつでも本物でなければなりません。だから例外にするために過去・現在・未来に分けた三蔵はあり得ません。カーラーマ経に従えば、そうする必要はありません。だから「三蔵にあるから本当だ」と基準にはできません。自分自身を失わせるだけです。

 いるのは、どこに掛けるかも知らないで梯子を担いで歩く人のように、ぼやけた記憶で寝言を言う自分だけです。私たちの三蔵は、選んで消化して結果を出すためのたくさんの資料としてあります。それは、本当にその人にふさわしく体と心の苦を解決します。海にいる魚を全部食べ尽せる人は誰もいないように、資料つまり三蔵全部を、選びも噛み砕きもしないで食べられる人はいません。海の中には魚が多いので、知っている魚だけ、そして美味しい魚だけを選んで食べます。

 それでも山ほどいるので、知らない魚、疑わしい魚を食べる必要はありません。あるいは関心をもつのも時間の無駄です。三蔵の中の、理解できない内容もそうです。つまり三蔵の中に放置しておきましょう。明らかに見えるもの、そしてカーラーマ経の原則を使えるものだけにします。それは安全なので素晴らしいと見なします。あなたには、今言ったような三蔵で実践してもらいたいです。

問 : はい。すみませんが、先ほどの「梯子を担ぐ話」を、ちょっと説明していただけませんか。何度もお聞きしたことがあるのですが、良く理解できません。

答 : 分かり易い話ですよ、あなた。ある男が、「この梯子は良い。繋げて掛ければ余所の娘の所へ訪ねて行ける」と周りの人が言うのを聞いて、その梯子が気に入って担いで、どこで見ても担いでいて、幾つもの梯子を担いで何年も歩き回り、誰に訊かれても「これで余所の娘を訪ねていく」と答えていたんですが、ある男が長い間それを見ていて、からかいたくて我慢できずに、「どこの家に掛けるんだね」と訊きました。それで友達やその男自身も、梯子をどこへ掛けるか分からないことが分かりました。まだその男は誰かに惚れたことがなく、どこの誰が好きか、どこの集落の娘か言うことができなかったからです。この話は三蔵にあります。

問 : あー、理解できました。それだけで十分です。次は「道具」の重要性についてお聞きする方がいいです。舟やイカダは向こう岸へ渡る道具です。梯子も高い所へ登る道具です。戒・サマーディ・智慧、あるいはブッダ・プラタム・僧(その人の見方で経過する類でも)も、来世や姿が見えないものに対して恐怖がある人にとっては、本当に心を温める道具です。それで、道具と、それらの道具に執着する人の価値を、どれくらいと見たら良いのでしょうか。

答 : 「道具」は、その時それにある性能の百パーセントの価値があります。しかしその道具を信仰している人は、行動と期間がいろいろです。仮にその男が望みどおりの娘を手に入れて、それでもまだ梯子を担いでいたら、あなたはどう思いますか。良い方法は、それを使いたい人にやるのが良くはないですか。あるいは博物館に収めるのでも、その後も担いで歩くよりは良いでしょう。その人が梯子から離れなければ、彼は自分の妻から何も利益が得られないので、その前に梯子を捨てなければなりません。

 その人が使う必要がある時は、その道具の価値が百パーセントあっても、あなたがこれを、道具を捨てなければならない領域と見たら、その人にとって価値が無くなったと見なさなければなりません。使わなければならない時に、何に使うか知らなければ、その道具は所有者を笑い者にするだけです。何にどう使うか分かった時、その人にとって価値が生まれます。それをどこでどう使うか知らない人ばかりなら、その人は迷ってそれを非常に愛すので、自分の道具の自慢をして、他人をけなすだけです。

 梯子を武器にして叩けば、ただ担いで歩くよりもっと悪い話になるでしょう。学習者も実践者も、「向こう岸」へ渡る大きなイカダがあると自慢します。しかしそれでも、竹を一本ずつ引き抜いて全部売ると見る人もいます。あるいは、自分のイカダはあの人のより美しいと散々にやりこめる人もいて、その竹を引き抜いて棍棒代わりに使い、自分が水に落ちるまで闘う人もいます。イカダを、家の前の船着き場で腐らせる人もいます。道具として使う前も、このように使いません。私は、その道具はその人にとって百パーセントの価値がないと見なします。

 彼らが使わない、あるいはその価値に合った使い方をしないのでも、あるいはその財産に惑溺するあまり使う勇気がないのでも、あるいは愚かさゆえに、道具を使う結果より道具自体に惚れていても、それらの道具はその人のために何の利益もないと見なします。そして彼自身、未来永劫道具に依存しなければならない人に陥っています。彼は「私は道具がいっぱいある」と(彼の見方による)幸福ですが、誰もが、何も夢中になるものが無いよりは良いと見るしかありません。

 まだ一緒にいなければならない「ヒヨコ」の視点では、彼はただの人ではないと見なされますが、「飛んで行く」生き物の視点では、他の人より善くないです。財産にしがみつけばつくほど、道具に迷っていない人より失うからです。要するに、道具が自分を縛りつける道具、あるいは(涅槃に)行くのを忘れるほど自分の首を絞める道具にならないように、良く注意しなければなりません。このように道具はどんな時、どのように、どれくらい益と害があるか、自分で判断してください。人と時と場によるからです。

 「私にはブッダ・プラタム・僧がある」、あるいは「戒・サマーディ・智慧がある」と自慢することは、その所有することに細心の注意を払わなければなりません。そうでなければ、梯子を持っていること、使う前も、使っている時も、最高に滑稽な財産である竹のイカダを持っていることになります。そしてそれこそが、(その人の見方による)ブッダ・プラタム・僧という名にそびえ立っている、そして涅槃を隠すヒマラヤです。何のためにあるのか知らずに、あるいは五欲である物質的な結果を得るためにブッダ・プラタム・僧がある人は、仏教教団員として最高に恥知らずと見なします。

問 : 猊下はブッダ・プラタム・僧を取と見なしていて、その教えは伝統様式には無く、それに熟慮して見ると道理に合っていないと言う人がいます。

答 : あなたが良く熟慮して見れば、そう言った人は取について何も知識がなく、取という難しい言葉についてぼやけた記憶があるだけで、そうでなければ、私の話をそんな風に聞くことはあり得ないと分かります。「取」あるいは執着は五種類、つまり形・受・想・行・識への執着であり、そして執着の行動は四つに分類できます。

1.愛する物への執着で、カームパーターナ(欲取)と言い、
2.誤解による執着でディットゥパーターナ(見取)と言い、
3.間違った実践の執着で、シーラッパットゥパーターナ(戒禁取)と言い、
4.自分という理解で執着することをアッタヴァートゥパーターナ(我語取)と言います。

 たとえば仏像を美しいと言って信仰するのは、場合によってカームパーターナ(欲取)、あるいはディットゥパーターナ(見取)の行動による形蘊への執着です。赤や青の星の色を、お招きしたブッダと執着するのは、ディットゥパーターンナ(見取)、あるいははシーラッパトゥパーターナ(戒禁取)の行動による、識蘊あるいは行蘊への執着で、場合によります。その人の見方による何らかの識または心を、ブッダの実体と信仰するのは、アッタヴァートゥパーターナ(我語取)の行動による、場合によって何らかの行蘊または識蘊への執着です。

だから私は、ディトゥパーターナ(見取)、またはアッタヴァートゥパーターナ(我語取)の威力で何らかの蘊に執着している人の見方によるブッダ・プラタム・僧は、その人の見方によるブッダ・プラタム・僧であって、本当のブッダ・プラタム・僧ではないと教える努力をしています。そして最高レベルでは、ブッダは、サンカタダンマ(有為のもの)でもアサンカタダンマ(無為のもの)でも、アッタヴァートゥパーターナ(我語取)を消滅させて阿羅漢になるために、すべてのものに実体として執着することを禁じています。

 彼らは「サッペー タンマー アナッター(すべてのものは無我である)」、あるいは「サッペー タンマー ナーラン アビニヴェサーヤ」という教えを持しています。だから私たちは、取は大問題であり、最後まで課題であると見ることができます。違うのは、意識できないほど最高に巧妙に隠すだけです。そしてどの宗教徒にも生じがちな微妙な取も、その宗教の神聖な物質に関してだけ生じます。その宗教の目的が、ローグッタラほど深遠なものを望まなければ、とりあえず危険から脱し、その上良い結果になります。

 しかしローグッタラまで行きたい宗教は、その宗教徒は、取が助けになるのが終わるまで何らかの取の威力で自分を引き止めたら、その後すべての取を棄てなければなりません。低くて粗いレベルの取を捨てた後、善も悪も、徳も罪も越えてしまうよう教える宗教は、例外なくこの形になります。だからあなたは、その人の何らか取の威力で作り上げたブッダ・プラタム・僧は、物質、あるいはその人の執着の産物でしかないと分かります。

 しかしほとんどすべての言語は、一まとめに言うために、このような結果を原因と一緒にし、(たとえば、現代の科学の力で発明したいろんな物を、まとめて科学と呼びます)。取の結果であるものも、時には「取」とまとめて話されます。ハッキリ見えない名の(抽象的な)ものほど、簡単にまとめて話されます。

 いずれにしてもヒマラヤであることには二種類あります。つまりその人の取はヒマラヤであり、ブッダ・プラタム・僧、あるいはその人が取で作り上げたものは何でもヒマラヤです。なぜならこのような場合分けることができず、そして分けなければならない理由もないからです。その人の見方によるブッダ・プラタム・僧は言うまでもなく、執着の威力で自分と執着することはできません。

その人の見解による涅槃、あるいはアサンカタタートゥ(無為)も、無明が厚い人は、いつでも「実体がある」「国だ」と取で執着しています。私は、取と取のものも二つあると、理解することができますが、仕事をする時に分けたことはありません。それが義務を行なう時は、火と燃料のように、別のものでも分けることはできません。だから私がアッタヴァートゥパーターナ(我語取)について話す時、当然、取のものも意味します。

問 : 一般的に言って、取は害がありますか、それとも何か利益がありますか。

答 : すべての生き物は取で生じ、取によって命があり、善いこと悪いことをするのも取の威力で、食べ物や名誉や生殖を求めるのも取によってです。そして自分は苦がある人だと信じる取が、ブッダ・プラタム・僧、あるいは涅槃にも興味を持たせます。つまりすべての生き物は、取を絶滅させて阿羅漢・涅槃になるまで、常に取に依存していなければならないことで、取の奴隷でなければなりません。世俗的な面から見れば、死ぬまで闘う生き物は名誉があると見ますが、それは取のせいです。

 何らかの仕事に命を捧げる英雄は、その人のその形で湧き上がる取で、命を惜しまずマンゴーの房を守っている赤アリも、他に負けないない取です。人間は通常、当然、目いっぱい取の奴隷になっていると、そして命への取、あるいは世界に戦争や大戦を生じさせる階級への取以外の何物でもないと、証明して見せるものはたくさんあります。あなたも自分で見れば、正しく使えば見事でも、使い方を間違えば醜い火と同じと見ることができます。

 いずれにしても、生老病死から、すべての苦から人類を連れ出したい仏教は、取を段階的に捨て、阿羅漢の段階で絶滅させるよう教えています。「こちら側」は取でいっぱいですが、「向こう側」は取が絶滅しています。あなたは「向こう側」に関心がある人の一人なので、あなたを阻んでいるヒマラヤであるもの、あるいはたくさんの動物を阻んでいるものは何か、自分で良く見てください。しかし口だけで「向こう側に夢中」になる族は除外しなければね。そうすればあなたは、三蔵を信じる必要のない人、あるいは取はどう善いのか悪いのか、勝手に推測する必要のない人になります。

問 : 次は、サッサタディティ(自分と世界は不変だという見解。常見)とディッタタンマニッバーナディティ(後に説明があります)についてお尋ねします。彼は、猊下がこの二種類の見解で庶民を騙して教えると非難しているからです。

答 : 私にこの二つの見解があると彼が規定するなら、受け入れてもいいですが、私の訳語で解釈し直さなければいけません。つまり、サッサタディティは「涅槃を変わらないものと見る見解」という意味です。こうなら私は、喜んでサッサタディティの仲間になります。そしてディッタンマニバーナディティを、「涅槃はこのディティダンマ(現世)のうちに到達しなければならないものという見解」と解釈するなら、非常に満足です。私はいま、人間同朋がこの列に入るよう後押しをしているからです。

問 : それでこの二つの言葉は、どういう意味ですか。何を意味するのですか。彼らが邪見という意味を説明していただけないでしょうか。

答 : まだ知らないのなら、いいですよ。サッサタディティとは「変わらないという見解」という意味で、何でも今の状態がずっとそのまま変化することはないという見解です。真実であり得ないので、邪見に分類されます。ディッタタンマニバーナディティは、「ディッタンマスッガ(現在の幸福)の中に涅槃はあるという見解」という意味で、ハッキリ五つに分類されています。つまり①幸福を涅槃と迷う人、②禅定を幸福と迷う人、③二禅を涅槃と迷う人、④三禅を涅槃と迷う人、そして⑤四禅を涅槃と迷う人です。パーリ教典ブラフマチャーラ経を開いて、これらのディティの名前を見てください。

 タイ語訳なら佛教新聞の一九三五年の一号二号のタイ語訳三蔵の部、二四八ページから二五一ページでも見られます。彼が私を、この二つの見解で教えると非難するなら、このような見解があるか、あるいはこの意味でどこかで教えているかどうか、あなた自身で見てください。



次へ ホームページへ 法話目次へ