アーナーパーナサティ最終日の講義

                

 今日は今までお話してきたことを復習し、理解度を試してみるためのまとめの講義です。アーナーパーナサティの教えについて熟知するには、かなりの時間が必用だと思います。実際に実践を始められるようになるまでには何ヶ月もかかります。だから、ここでできることは原則を明確に理解することと、理解に基づいた実践を試してみることだけです。

 明確明瞭な理解が不可欠です。つまり初めから最後まで連係していることと、目的と、理由を知るという意味です。

 最初の日に、「仏教の教えは何にも執着しないということにある」と言いました。「すべてのものは無常、苦、無我なので、執着するべきものは何もない」と見ることです。そして無常という感覚と、執着しないという気持を常に感じていてください。

 しかし心は言うことを聞かないで、言うことを聞いてそのような考えになろうとしないで、暴れ回ります。だから心に言うことをきかせ、無常を見、あるいは執着するべきでないと見る性質にするために、何か方法が必要です。その方法というのが、アーナーパーナサティ16段階の課程、あるいはアーナーパーナサティ16段階の中にある四念処と呼ぶものです。

 四念処は別の形でもあるということを理解してください。たとえばディーガニカーヤ(長部。長阿那含経)の大四念処経などでも述べられていますが、その中では学習項目のような目録だけ話していて、直接実践課程として、そして一つに繋がったものとして説かれていません。だから勉強としてのサティパターナと見なします。

 一方アーナーパーナサティ16段階について述べているマッヂニマニカーヤ(中部。阿那含経)のアーナーパーナサティ経の中にあるのは、実践する四念処です。段階的に繋がっている実践課程を、最初から最後まで、つまり聖果に達するまでを明示しているからです。

 あの経この経、その話あの話と途中でテキストを替えずに、最後まで繋がっている一つをすれば良く、他のものに替えてはいけません。だからアーナーパーナサティ、あるいはアーナーパーナサティ経の四念処は、実践する四念処であり、実践規範です。だから各段階がどのようなものかお見せするために、お話しました。

 これから16段階がどう始まってどう終わるのか、繋がっていると言っていたそれぞれ段階の関連はどうなのかを見ていきます。そこで、今までお話した知識の理解が、どれだけこのまとめと一致するか、自分でテストできるようにもう一度おさらいしましょう。

1.長く息を吐いた時吸った時、知る。(パチャーナーティ) カーヤーヌパッサナーサティパターナ

2.短く息を吐いた時吸った時、知る。(パチャーナーティ)

3.呼吸をしてすべての体を知る。(パティサンウェーティー)

4.呼吸をしてカーヤ サンカーラを抑制する。(パッサマパヤ)

5.呼吸をして喜悦を知る。(パティサンウェーティー)  ヴェーダーヌパッサナーサティパターナ

6.呼吸をして幸福を知る。(パティサンウェーティー)

7.呼吸をしててチッタ サンカーラを知る。(パティサンウェーティー)

8.呼吸をしてチッタ サンカーラを抑制する

9.呼吸をして心を知る。(パティサンウェーティー)     チッターヌパッサナーサティパターナ

10.呼吸をして心をより歓喜させる。

11.呼吸をして心を磐石にする

12.呼吸をして心を開放する

13.呼吸をして無常を見る。                 タンマーヌパッサナーサティパターナ

14.呼吸をして薄らぐことを見る。離欲。ヴィラーガ)

15.呼吸をして滅亡を見る。(滅尽。ニローダ)

16.呼吸をして振り払うことを見る。(捨離。パティニッサッガ)

 アーナーパーナサティの第1、第2段階は、呼吸の在りようを知るために、長い息の出入り、短い息の出入りを知る準備の段階です。そしてこの段階では、呼吸が意識するための感情あるいはニミッタ(徴)です。だから入ったり出たり運行している呼吸自体を常に休みなく意識します。

 次の段階では呼吸に代わって他のものを、つまりある事実、またはある状態、ある感覚をニミッタとして用いて意識します。しかし心を意識する段階まで、同じように一呼吸ごとにします。心を知るために心の状態はどうかを意識する時にも、呼吸の代わりに使います。つまり心の状態を意識することが、呼吸を意識する代わりのニミッタです。最後の部まで一呼吸ごとに意識します。

 つまり13段階以降は私たちが一番見たい状態、つまり不確実で執着するべきでないいろんな状態を意識します。このようなありようを、それまで用いていた呼吸の代わりにし、無常あるいは「欲しくない、なりたくない」という感覚を、常に一呼吸ごとに意識します。これが仏教の要旨です。

 それから段階的に結果が生じてきたら、その生じてくる結果をニミッタとして意識します。最後の段階、つまりそれまで執着していたもの、執着を振り払う段階まで、得られた結果を呼吸の代わりにして、一呼吸ごとに意識します。

 まとめると、一呼吸ごとに何らかのものを意識することから、このようにすることをアーナーパーナサティと言います。どの段階も一呼吸ごとに何かを意識するので、アーナーパーナサティと呼びます。

 全16段階の項目の構造を見ると、初めの二つの段階は一呼吸ごとに呼吸を意識するということが分かります。続いて体を意識し、カーヤサンカーラを意識し、喜悦を意識し、幸福を意識する、というように、最後までどんどん代わっていきます。しかし常に一呼吸ごとに意識しなければなりません。

 アーナーパーナサティの要旨を、「一呼吸ごとに何かを意識するのでアーナーパーナサティと呼ぶ」と捉えてください。しかし私たちは滅苦をしたいので、滅苦に繋がるものだけを意識します。本来は何を意識しても、何を考えてもいいのです。

 一呼吸ごとにクルンテープ(バンコクのタイ語名)のことを考えても、アーナーパーナサティには変わりありません。しかしそれはタンマの実践ではありません。修行のためには滅苦に効果のあるものを意識します。だから各段階の感情は滅苦に関わる一連のものです。あるいは段階的に送り継いでいきます。次はそれぞれの段階はどんな段階かをお話します。

 第1段階。長い息を意識する。

 人は通常、それなりに長い息をしているので、初めに長い息を意識して、それから短い息を意識して、知ります。短い息は体に異常がある時の呼吸だからです。もし体が正常なら呼吸も普通の長い息をしています。怒ったり恐れたり、悲しんだり、あるいは何か感情を損ねることがあれば、呼吸は短くなります。

 だから次の段階で短い息はどんなか、いつそういう状態になるか、短い息を意識します。これは呼吸を良く知るために他なりません。長い息を知る時は、無理に異常に長い息をして、最高に長い息まで学ばなければなりません。それから少しずつ弛めて、普通の長い息にします。そうすれば長い息についてより良く知ります。

 第2段階。短い息を知る。 

 これも同じです。非常に短いとはどれくらいか、少し短いとはどれくらいか、何かの原因で、たとえば疲れているから呼吸がこんなに短い、疲れてないから呼吸がこんなに長い、ということを知ります。二種類の息について、呼吸が自然に変化していく状態を知っておくためです。呼吸の自然な状態について知悉すると言います。この二つの段階では、呼吸を意識する感情(対象)とします。(つまりニミッタ)

 第3段階。すべての体を知る。

 つまりすべての呼吸は体と関連していることを知ります。一緒に上下し、呼吸が荒ければ体も荒く乱れ、呼吸が滑らかなら体も穏やかに静まるという意味です。ブッダは「私は、呼吸は体全体の一部であると言う」と言っています。第3段階ですべての体を知るということは、体と関連があり、体を変調させる呼吸を知るという意味です。荒い呼吸は体を乱調にし、穏やかな呼吸は体も穏やかにします。

 だから呼吸は「体を変化させるもの」あるいは「カーヤサンカーラ」と呼ばれます。この段階では、ただ長い短い息を意識するのではなく、体を変調させる働きのある呼吸を感情として意識します。「体をすべて知る」というのはそういう意味です。

 憶えやすいように短く言えば、体と関連のある呼吸についてのすべての事実を知ることです。これを「体のすべて」と言います。これに熟達し、何がカーヤサンカーラかを知ったら、次の段階に進みます。つまり第4段階の練習は、カーヤサンカーラより強い力のある人になること、つまり呼吸を支配できる人になることです。

 第4段階。

 カーヤサンカーラを静める練習。ここでの「静める」パッサンパヤとは、滅亡させることではありません。タイ語では静めるだけと誤解されています。それを静めて静めて、微弱にして微弱にして、可能な限り微弱にします。こういうのをカーヤサンカーラを静めると言います。

 だからこの第4段階では、カーヤサンカーラが静まって、静まって、どれだけ穏やかになったか、どれくらい穏やかになったかを一呼吸ごとに見て、見て、見ていきます。最後には呼吸が静まってサマーディのレベルになり、ウパチャーラサマーディ(近行定)になり、そしてもっと微弱にしていくとアッパナーサマーディ(安止定)に達します。

 これらのサマーディが第4段階です。このサマーディになれば、カーヤサンカーラを静められたと言います。それで第一部、つまりカーヤーヌパッサナーサティパターナは終わりです。

 

 第5段階。

第4段階につづいて、つまり喜悦(ピーティ)を知ります。喜悦というものは、カーヤサンカーラを静めたことでサマーディが生じ、カーヤサンカーラを静められた満足が生じ、そして喜悦が生じます。

 あるいは禅定のレベルまでカーヤサンカーラを静められれば、たとえば初禅なら、その初禅の中に喜悦があります。だから第5段階で、その定の中のより重みのあるより強い喜悦を意識することもできます。喜悦を知るために、喜悦の味を、喜悦の状態を意識している、感じていると言います。

 第6段階。幸福を意識して知る。

 これも、喜びは幸福に変わるので、喜悦も幸福(スッカ)に変わります。喜悦とは満足あるいは喜びで、幸福とは快いことです。この二つの関係を意識して見るのも良いです。喜びと幸福は一緒にすることもできます。しかしこの段階の実践では、喜悦が一つ、幸福が一つと、分けてください。

 喜悦、幸福と呼ばれるものは第4段階から心の中に生じていますが、第5、第6段階から実際に意識し始めます。だから、喜悦と幸福の味はどんなものかを知り尽くします。この種の喜悦、幸福は五欲(欲情)に依存しませんが、タンマあるいは愛欲がないことに依存しています。だから完璧で最高の喜悦、幸福です。精神的な、あるいはタンマの最高の幸福を知ったと言います。つまり最高に広い喜悦と幸福を知ったことです。

 第7段階。心を変調させるものである喜悦と幸福を知る。

 第3段階の呼吸が体を変調させるものであるように、喜悦と幸福はこの第7段階で心を変調させるものです。チッタサンカーラ(心を作り上げているもの。つまり受と想)を知ること、つまり喜悦と幸福を知ります。あるいは別の呼び方で、受(感覚。ヴェーダナー)と言います。喜悦という名の受、幸福という名の受を課題にして、心を変調させるものだと知ります。

 そこで受に別の名前、チッタサンカーラという名をつけます。受が常に心を変調させている状態を、一呼吸ごとに知ります。受は想蘊(つまり、あれはああだ、これはこうだという理解。記憶)を生じさせます。そしてその記憶が心に考えを生じさせます。それで受が心を変調させると言います。受は考えを通して心を変調させます。

 たとえば通常の場合、目を喜ばす美しいものを見ると、幸福の受になり、そして綺麗な花だ、美しい女性だ、美しい男性だと判断します。これをサンヤー(想蘊)と言います。そしてそのサンヤーが考えを生じさせます。

 つまりあれを手に入れよう、これを手に入れようという考えが生まれます。これを心、あるいはヴィタッカ(尋)と呼ぶこともできます。受が心をそう変えます。だから受は「心を変調させるもの」あるいは「チッタサンカーラ」と呼ばれます。

 私たちは自分の内面にある事実を見なければなりません。受、つまり喜悦と幸福がどんな考えを生じさせるかを見てください。外部のものを、あれはこうあるべきだ、これはそうあるべきだと、批判しないでください。それは外部の問題です。

 心の中の喜悦と幸福は、今実際に何らかの考えを作り出しているので、受は心を変化させるという事実を発見するまでそれを見続けます。そしてこの真実を、ためらうことなく、疑うことなく明確に見ていきます。それから第7段階の実践に移ります。

 第8段階。チッタサンカーラの力を弱める。

 あるいは上手に管理します。心が「私、私の」と捉える執着の方向に変化させられないようにしてください。チッタサンカーラ、つまり受を弱められれば、それは心を支配できるからです。心を支配できるのは、心の原因に対する対処の仕方を知っているから、心を変化させる原因であるものを管理できます。

 受が心を変化させないようにするには、受(感情)はめちゃくちゃで、どうしようもないものだという知識を採用します。だから受の味である何かを求める時も、考えが私、私のという方向へ行くことはありません。たとえば美しいものを見ると目が幸福になります。知性はこの視覚的幸福を子供の遊びと見、判断します。最高に良くても子供の遊びです。本当は何もないマヤカシなので、その後そのような想、そのような考えは作り出されません。これを智慧によってチッタサンカーラが弱められたと言います。

 あるいはサマタで、つまり何かを意識して弱められても、同じように心は変調しなくなります。これに関する事実を意識しているだけで、受は心を変調させることができません。しかしこの段階になると智慧の段階なので、智慧をより多く使うようにします。

 そして受は変わりやすいものであり、苦であり無我であり、空であり、マヤカシであり、そのようなものだということを熟慮すると、感情が考えを作る力が弱められます。

 だから常にこの状態の心を維持管理すれば、チッタサンカーラを弱めると言います。自分で満足できるまで、そして心が感情によって変わらない状態に管理できるようになるまで、チッタサンカーラを弱めていきます。あるいは自分で良いと認められる程度まで。

 まだ煩悩がなくなった訳ではありませんが、十分支配下にあります。これで第二部、ヴェーダーヌパッサナーである四段階が終わりました。次は第三部、つまりチッターヌパッサナーの部であり、心にいちゃもんをつける、あるいは傷めつけることと見ることができます。

 

 第9段階。心はどんなものかを知る。

 どのように、何種類に変化するか、どんな時心がそうなるかを知ります。どんな時心がそうなるか、貪りがある時かない時か、怒りがある時かない時かなどが一つ。あるいは呼吸を長くしていく時、短くしていく時、心はどうかを知ります。心の状態はどうか、全段階を見張り、知り、それらをまとめて、心がその状態にあると言います。

 そして心をより一層繊細にするために何か一つを綿密に意識し、熟慮し、知ります。つまり段階に応じてどんどん緻密になっていく心で、心を広く知ることです。多種多様な心を知ると言います。ここで説明する必用はありません。心の状態は何種類あるのか、幾つの状態があるのか、と要約するだけです。

 この段階も、心の状態を、それに習熟するまで一呼吸ごとの感情またはニミッタにしています。掌中にあると言える状態になってから、第10−11−12段階へ入りします。

 第10−11−12段階。

 この三段階は腕の見せ所です。つまり心をどう支配してもかまいません。一呼吸ごとに心を支配して喜ばせます。心を思ったどおりに支配して、常に喜ばせます。第11段階では心を停止させ、心が何か一つの感情(心の概念)の中に停っていることを、一呼吸ごとに明確に見ます。心が磐石に停止していることを見ます。

 第12段階では心を支配して、心を取り囲んでいる煩悩、あるいは蓋など、心が執着しているものを捨てさせます。心を取り囲んでいたものを捨てさせることができたと言います。あるいは五蘊など、心が自我で執着していたものへの執着を捨てさせることができました。これを二つを捨てたと言います。

 しかしまだ煩悩が絶滅した訳ではありません。ただこの状態で心を訓練しているだけなので、心の状態を知悉し、心を三つの状態に支配できる人になります。つまり喜ばすことと、静めること、そして捨てること。四段階全部ができれば、第三部、チッターヌパッサナーサティパターナが終わったと言います。

 

 次は最後の部、つまりタンマについて熟慮するタンマーヌパッサナーサティパターナに進みます。心を支配して支配下におくことと繋がっています。初めの段階で何か一つのものを意識する時、心が言う事をきかないで逃げ出そうとしていた問題は、ここで解決し、私たちの意図したとおりに、心が一つのものを意識することに成功します。そこで最後の部ではつねに無常が見えるように支配し始めます。

 第13段階。無常を追って見る。

 この段階でいう無常とは、苦、無我、空をすべてを一まとめにして無常とします。つまり変転です。無常とは変転という意味です。苦とはいろんな意味で見る人の目が痛むという意味です。無我とは自我ではないという意味です。そして空とは実体があるものとしての意味がないことです。すべてを一つにして無常とします。

 意図したとおりに無常が見えれば、「成功が期待できる」と言うことができます。仏教の要旨を意識することができるからです。仏教の要旨とは、「何物にも執着するべきでない」という項目が心に具わっていることです。だから何を見ても執着するべきでないものばかり、つまり一呼吸ごとに無常が見えます。これがタンマの部、あるいはタンマーヌ パッサナーサティパターナの最初です。

 第14段階。

 一呼吸ごとに無常を見尽くせば、心はヴィラーガ(離欲。薄れること)を見るところに行き着きます。つまり執着が薄れるので、不確実である感情を捨て、薄れていく感覚、つまり執着が薄れていくことを見ます。この段階では、ヴィラーガ(離欲)と言われるものを心で感じます。目で見るのではありません。思考するのでもありません。それまで「自分だ、自分のだ」と執着していたあれやこれに対する執着が、薄れていくのがはっきりと見えます。

 あるいは心が煩悩に包囲されていても、心はそこから脱出できます。心が煩悩の包囲から脱出できれば、ヴィラーガ(離欲)と呼ぶ薄れることが見えています。煩悩、特に執着が薄れることは、つまり一呼吸ごとに、常にこの段階の薄れることが明確に見えることです。実際に見えるまでに何時間、何日かかるかは人によって違います。しかし本当に最後まで薄れたら、そうしたら滅苦を見ることに入ります。

 第15段階。滅苦を見る。

 本当に滅すことができること、苦のない心、つまり苦が滅したことを一呼吸ごとに常に見ます。

 第16段階。

 最後の段階は、それまで「私のもの」と抱え込み執着していたものを、仮定の中で振り捨てたという点を見ます。あるいは自分を追い出し、振り払ったことです。仮定で言えば私たちが振り払ったのですが、事実で言えば、心が「私、私の」と捉えて執着していたものを振り払いました。つまり執着と呼ぶもの、あるいは何かに執着することを返却しました。

 普通の言い方をすれば「もう返す。要らないから返す。持ち主に返す」です。今まで自然のものを自分、自分のとしてきました。精神や心などを自分とし、感情や感覚や記憶を自分のものとしてきました。ここまで来たら、それらの「自分、自分のもの」を自然に返します。

 はっきり言えば、心が「俺、俺のもの」という執着から脱出したのです。だからこの第16段階は、ヴィムッティ(解脱)と呼ぶだけでなく、他の似たような言葉で呼ぶことができます。つまりタンマーヌパッサナーの第四部の最高最終段階です。

 全四部、部ごとに4段階で16段階を、まとめてアーナーパーナサティと呼びます。16段階あるいは四部は、意識する感情で分けています。第一部は体つまり呼吸を意識し、第二部は受を意識し、第三部は心を意識し、第四部は心に現れたタンマを意識します。これでサティパターナ(四念処)になります。16段階欠けることなく揃っている、一連の修行です。

 このアーナーパーナサティの過程を良く理解しなければなりません。実践する上で一番簡単便利で完璧な、唯一の実践課程だからです。他のものは完全でないものもあるし、ぎこちないのもあります。

 毛をむしり取るのが大変なものもあります。呼吸が体毛の上を滑りません。呼吸は身の内にあるのに、カシン(十遍処で瞑想に使う小道具)や不浄物を意識するので、あちこちで毛をむしらなければなりません。

 しかし呼吸なら身の内にあるので、どこに行ってもあります。意識しやすく楽です。それに怖くありません。恐怖で驚くような状況は発生しません。アーナーパーナサティは恐怖で震える不浄物などを見る方法とは違います。

 だからブッダはアーナーパーナサティバーヴァナーを推奨されたのです。自殺を考えるほど自分の暮らしぶりに厭きた僧にも、このカンマターンを勧めました。他のどのカンマターンよりも快適だからです。

 次に知らなければならない真実について見ていきます。つまり最も重要な真実です。どうぞ、仏教の完璧な修行と呼べるものはこれ一つしかないと捉えて、興味を持ってください。要するに完成度から言えば、このアーナーパーナサティがすべての修行と言わなければなりません。

 三学の教え、つまり戒、サマーディ、智慧を基準に見ても、16段階の中に戒、サマーディ、智慧が揃っています。自分を厳しく支配して、律したものにする状態は、戒と呼ぶ支配、つまり抑制防止です。

 だから戒は16段階のどこにもあります。戒の意味、あるいは戒は全16段階の中にあります。抑制防止は不可欠だからです。つまりサマーディで強制し、ある状態になるよう調整すること。これを戒と言います。

 次に心の感情を必ず何か一つにすることをサマーディと言います。これは第1−2段階に明らかに見られます。この第1−2段階は、サマーディの状態が最も明らかです。第3段階から第12段階までは、智慧が入り介入して、だんだん増えていきます。だんだん増えると言っても、まだサマーディが先頭にいます。智慧が混入して第12段階まで増え続けます。

 第13段階から第16段階までは智慧が力を増し、サマーディの代わりに先頭に出ます。サマーディは後ろまたは下へ追いやられます。智慧が顔を出すので、第13−14,15−16段階は完璧に智慧の話です。最後には無常、苦、無我が見え、煩悩が薄らぐのが見え、そして苦が滅亡し、解脱します。これを完璧な智慧と言います。

 もう一度繰り返します。戒はどの段階にもあります。智慧が混じらないで、純粋にサマーディだけなのは第1と第2段階です。第3段階から第12段階までは智慧が入り込んで次第に増えます。しかし第12段階まではサマーディが先導します。第13段階以降は智慧がサマーディより力を増して先頭に立ち、サマーディは隠れているだけになります。

 このように関連し融合し合っているのを、八正道と呼びます。つまり分かれていません。バラバラに分かれてしまえば八正道になりません。八正道とは、戒、サマーディ、智慧に分かれていない三学です。戒と智慧について述べ、それから段階ごとに、その回ごとに、機会ごとに分けて教えるのは、規範だけで、行動としては使い物になりません。何も効果がありません。それに非常に困難です。

 つまり戒だけを純粋にするのは、臼を転がして山を登るように大変です。何も得ることもなく無駄死にすることもあります。しかし今述べたように全部一緒にやれば、簡単なので八正道になります。全部混ざっているという意味です。これらのアーナーパーナサティを実践してみれば、戒もサマーディも智慧も、同時に八正道の形になります。実践し易いので臼を転がして山を登るようではありません。

 戒を純粋に百パーセント守らなければサマーディはうまく行かないと言う人がいますが、その人の当てずっぽうです。このような状態についてブッダは『噛み合わせていく。撚り合わせていく』と言っています。真実を言えば智慧が先にあります。

 つまり智慧が、「この修行は使える。頼りになる」と教えてくれます。それが智慧です。それから実践を始めると戒、サマーディ、智慧が揃って更に充実します。この集中して注意することを戒と言います。心が一つのものを意識していることをサマーディと言います。いろいろなことを知ることは智慧です。だからこの課程の中には戒、サマーディ、智慧が揃っています。

 パーリ語経典の中で、アーナーパーナサティを沢山して上達すれば、当然四念処も完璧になるとブッダは言っていますが、どんなに完璧かは明らかに見えます。四念処を沢山すれば、当然七覚支が完璧になります。七覚支を沢山すれば、当然明と解脱が完璧になります。

 お話してきた四念処である16段階を、どの段階も欠かさず実践すれば、サティ、択法、精進、喜悦、軽安、サマーディ、捨に出合います。すでに説明したように、サティは意識することにあります。択法は熟慮しています。精進は努力することにあります。喜悦は努力を育てるものにあります。軽安はカーヤサンカーラ(体を作り上げているもの、つまり呼吸)あるいはチッタサンカーラ(心を作り上げているもの、つまり受と想)が静まることにあります。

 そしてサマーディは熟視することの中にあります。状態であれ感情であれ熟視すればサマーディと呼びます。そしてじっと熟視できるよう管理すると、安定した捨になり、最後には解脱する智慧が生じます。だから人がこのように完璧に四念処をすれば七覚支も完璧になります。

 七覚支が完璧になれば、明(知識)とヴィムッティ(解脱)と呼ばれるものは、何の問題もなく確実に生じてきます。自然の義務です。だから修行はこれだけで十分と言います。そしてすべての仏教の本物になるものも何もかも、この16段階に一つに集約できます。

 どうぞタンマの部のいずれかの項目、いずれかの段階を試して見てください。そうすればどれかの段階はできます。だからこの16段階のどれも、すべてのタンマを集めたものと言います。だからこのアーナーパーナサティの実践をして、完全に苦を滅亡させるために学んで実践するには、仏教については十分だと言うことができます。

 次に見ていかなければならないことが少しあります。この実践に不可欠な、あるいは生じさせなければならないヤーナ(知識。智)です。初めの二部、つまり第1部と第2部のヤーナ(智)、あるいは知識は、一緒に話すことができます。一つは危害、もう一つは支援で正反対だからです。つまり相互に実践する対のタンマです。みなさんは仏教の教科で学んだことがあるので、対と言ってしまいましょう。一つは危害、もう一つは支援です。

 たとえば愛欲に満足することは害、愛欲から離れることは支援です。愛欲に満足することと愛欲から離れることは正反対です。愛欲に満足することはサマーディにとって害です。愛欲から離れることはサマーディの益になります。これは一対です。

 復讐心は害、復讐心のないことは益。

 ぼんやりすることは害、明るさは益。

 取り乱すことは害、取り乱さないことは益。これも一対。

 ためらいは害、タンマを確実に知ることは益。これも一対。

 不満は害、喜びは益。これも一対。

 すべての悪は害、すべての善は益。これは最後の一対。

 ブッダがこれだけ取り上げて、まだいくらでもあるのに悪と善で終わりにしたのは、七組だけを見本にしたと分かります。これは知らなければならないことと言えます。そしてこの知識もヤーナ(智)と言います。ヤーナ(智)あるいは知識は第一部と第二部はそれぞれ七つずつあります。

 第3部。害になるものに関わる知識、サマーディを曇らすもの、つまりサマーディを妨害するものは十八種類あります。

1.呼気の初め、中間、終わりを意識する時に心の内部が乱れる。

2.吸気の初め、中間、終わりを意識する時に心の外部が乱れる。

3.その時呼気に、期待、欲、満足、あるいは欲望がある。

4.その時吸気に、期待、欲、満足、あるいは欲望がある。

5.呼吸への関心が強すぎて、吸気が鮮明になる。

6.吸気への関心が強すぎて、呼気が不鮮明になる。

7.ニミッタを意識する時、心の呼吸を意識している部分が揺らぐ。

8.呼気を意識する時、心のニミッタを意識している部分が揺らぐ。

9.ニミッタを意識する時、心の吸気を意識している部分が揺らぐ。

10.吸気を意識する時、心のニミッタを意識している部分が揺らぐ。

11.呼気を意識する時、吸気を意識する心が揺らぐ。

12.吸気を意識する時、呼気を意識する心が揺らぐ。

13.心が過去の感情に走るので、焦燥感に陥る。

14.心が未来の感情(期待という言葉を使う)に走るので、動揺する。

15.心が萎縮して怠慢になる。

16.心が必死になりすぎるあまり乱れる。

17.心が感情に敏感すぎるあまり情欲に陥る。

18.心に明るさがなく純粋でないので、不満や怒りに陥る。 

 

 第4部。つまりサマーディの純粋さについては、第3部と正反対になっています。

 13、14項の障害物は、心がその種のものを除くことで抑え、動揺を避け心を一つにすれば、当然心の揺れは治まります。そうすれば心が動揺する害を抑えることができます。

 15項の心が萎縮するのは、いろんな方法でなだめて、大事に見守ることで解決します。

 16項の心が必死になりすぎるのは、いろんな方法で心を抑えることで解決します。

 17項の心が感情に敏感すぎるのは、敏感さを抑える理知を増やして解決します。

 18項の心が不満や怒り焦慮に陥るのは、心を明るくする理知を増やして解決します。

 その他にも反対の行動で解決します。

 心が最上の状態は次の四つです。

イ 放棄すること、犠牲にすること。

ロ サマタのニミッタが明らかに現れる。

ハ 無常の様相が明確に現れる。

ニ アッターサンヤー(自我想)の滅であるタンマが明らかに現れる。

 以上は、反対の行動の中に残っている障害を解決するものです。

 

 第5部の知識の32項の、サティパターナがあるようにすることを知るというのは、アーナーパーナサティ全16段階のすべての段階が二種類あり、つまり呼気と吸気があるので32種類です。

 第6部の知識は、24種類のサマーディの力によって進行させますが、つまりアーナーパーナサティの第1段階から12段階まで(最後の四段階、つまり13から16段階までは除きます)のすべての段階に、呼気と吸気があるので、24種類になります。これは本当のサマーディは第1段階から第12段階までにあるということです。それから先は智慧です。

 だからサマーディの力に関わる知識を使えるのは24種類だけ、つまり1から12段階までです。それでサマーディの領域は終わります。この12段階はそれぞれ呼気と吸気があるので、24になり、ヤーナ(智)と呼ぶもの、あるいはサマーディの力で進行する知識は24種類あります。サマーディが先頭にある12段階のそれぞれが二つで24種類です。

 第7部の知識は、72種類のウィパッサナーの力で進行します。アーナーパーナサティの初めの12段階を呼気と吸気に分けて24種類としましたが、その一つ一つに無常を見、苦を見、無我を見ると、全部で72種類になります。三相の特質に合わせると72種類になります。72種類のウィパッサナーの力で進める知識はこのようです。

 第8部は、ニッビダー(厭離)の種類に関する知識です。アーナーパーナサティの最後の部、無常を見るところから返却するところまでの間に、呼気と吸気で八つに分かれています。この八つの中にニッビダー(厭離)が生じます。だからニッビダー(厭離)に関わる知識は八種類あります。

 第9部は、八種類あるニッビダー(厭離)を準備する知識です。たとえば輪廻に対して恐怖などの感情が生じたら、それは八種類あるニッビダー(厭離)の準備ができている感覚です。最後の四段階、無常が薄れることから返却することまでの4に、呼気と吸気で2を掛ければ、8になります。輪廻に対する恐怖などの感情は、この八つのどこにでも生じます。だから八種類です。

 第10部。ニッビダー(厭離)を弱める知識あるいはヤーナ(智)を、ニッビダー(厭離) パティパッサッタティヤーナ(智)と言いますが、このヤーナ(智)が生じると倦怠が弱まって、より高い足場にするために、より深い穏やかさを目指して前進します。

 八種類あるのは、同じくアーナーパーナサティの最後の部の四段階に呼気と吸気の二種類で2を掛けて、八種類になります。まとめると、ニッビダー(厭離)のヤーナ(智)が八種類、ニッビダー(厭離)を準備するヤーナ(智)が八種類、ニッビダー(厭離)の感覚を弱めるヤーナ(智)も八種類。それぞれ八種類です。

 第11部。最後の部は、ヴィムッティ(解脱)を生じさせる幸福を感じる知識、あるいはヤーナ(智)で21種類あります。11部のヤーナ(智)、つまりヴィムッティを生じさせる幸福を感じるヤーナ(智)は21種類あり、サンヨージャナ(結)とアヌサイ(随眠)で分けた向に分けられます。

 預流向は、当然有身見、疑念、戒禁取、謬見随眠、疑随眠の五つを絶つ。

 一来向は、当然粗い欲貪、粗い怒り、粗い貪欲随眠、粗い瞋恚随眠の四つを絶つ。

 阿那含向は、当然微妙な欲貪、微妙な怒り、微妙な貪欲随眠、微妙な瞋恚随眠の四つを絶つ。

 阿羅漢向は、当然有愛、無有愛、意地、恐怖、無明、慢随眠、有貪随眠、無明随眠の八つを絶つ。

 全部を合計すると21種類になります。一種類に一つのヤーナ(智)なので、ヤーナ(智)も21種類あります。この21のヤーナ(智)は、ヴィムッティ(解脱)だけを生じさせる幸福と呼ぶものばかりです。

 だからすべてのヤーナ(智)を合計すると、220になります。

つまりサマーディに害のあるものを知るヤーナ(智)が8、

サマーディに益になるものを知るヤーナ(智)が8、

サマーディを曇らすものを知ることが18、

サマーディを清浄にするものを知ることが13、

サティパターナを身につけることを知るのが32、

サマーディの力で経過するのを知るのが24、

ウィパッサナーの力で経過することが72、

ニッビダー(厭離)を知るのが8、

ニッビダー(厭離)を準備するものを知るのが8、

ニッビダー(厭離)を弱めるのを知るのが8、

ヴィムッティ(解脱)だけを生じさせる幸福の知識が21。全部で220です。

 


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