アーナーパーナサティスッタ

 アーナーパーナサティは呼吸の出入りを意識する条項だけではありません。各部ごとに意識する対象が変わっていきます。つまり体、感情、心、タンマ、それぞれの部でするのは、一息ごとに注視することです。このような行動からアーナーパーナサティと呼ばれます。

 この経は三蔵のサンユッタニカーヤ(相応部。雑阿含経)にあります。学ぶべき経ですが、誰も興味をもちません。反対に他のヴィパッサナーに興味があります。

 アーナーパーナサティをする上での障害は、小さい問題はいろんなことから生じます。特に大きな問題は、している時と、し終わった時に生じます。それにその人だけの、その時だけの問題もあります。

   正常な体、正常でない体に関するもの

   静かなことは妨害ではありません。

 場所の安全に関しては、風俗習慣が十分あるので心配はありません。たとえば猛獣がいるような、危険な、安全でない場所は避けてしまいます。虎や象などの野生動物のほとんどは、肉食動物であっても危害は及ぼしません。しかし危険に遭う前に安全に注意します。

 たとえば人の歩く道、水汲み場、果物を獲る場所、市場など、要するに、そこに座るべきかどうかという、みなさんの常識の問題です。木の根元でもいいです。草を敷いてその上に敷き布を敷いて座ります。草を敷くのは(ブッダに倣った)形式ではありません。柔らかくして骨が痛くないようにするためです。固い土や岩に座るとくるぶしが痛みます。眠気を誘うので、木などに寄りかかってはいけません。

 座り方は、ぐるっと脚を曲げて、体を真っ直ぐにして座り、サティを維持します。インドでは男も女も結跏趺坐の形に座ります。スリランカ式がきちんとしていて良いです。体を真っ直ぐしっかり立てて楽に座ります。何かに寄りかかる必用はありません。慣れるよう努力してください。何日もしないでできるようになります。

 椅子に掛けるのは、体調が悪い時か休憩する時だけで、通常は座るべきではありません。本当にやるには正式に座らなければなりません。柔らかいイスやソファーでサマーディをするのは、勝手にしています。体を強制できれば、心を強制できる部分も多くなります。

 結跏趺坐がふさわしい座り方です。一般にヨギーの人たちは必要以上に体を頑強に調整してしまいます。つまり体を鍛えます。結跏趺坐なんて難しくも何でもないと言います。慣れています。彼らは何でも練習しておきます。食べること、寝ること、ハッタバーサ(特定な座り方の規律)から、片足の親指だけで立ったり、刺の上に寝ることまでできるようになるまで練習します。

 難しい型が何十種類もあります。中腰状態で脚を組み、片方の親指だけが地上に触れているというのもあります。もっとも簡単なものから最高に難しいことまでできます。技巧を自慢するためにするのではありません。ヨギーにとって体を鍛えることです。

 しかし一般の人にとってはそれは行きすぎです。ブッダはそこまでは教えていません。しかしそのような練習を禁じてもいません。脚を交差して腰を下ろし、体を真っ直ぐにして座り、現前のサティを維持することをサマーディをすると言います。体を真っ直ぐにすることは不可欠です。体が曲がっている時より呼吸が安定して良いです。座る練習をしてください。

 サマーディの目的は、知っておかなければならない原則です。そうすれば自然にそうなります。サマーディの目的は四つあります。

1.聖人の味見である、生きているうちに見る幸福のため。

2.視聴覚を発達させ卓絶した透視力、聴力になるため。

3.完璧な理性のため。

4.煩悩を滅亡させるため。

第1項 現在の幸福

 一時的に煩悩の妨害がないことは、できないより良いので、ブッダは初めの項目にしています。目的はこうです。一般人の言い方をすれば、その時だけみなさんは聖人に達しています。普段は世界が私たちを支配ています。心がサマーディになった時、その世界は剥がされます。心がサマーディになった時、聖人に到達します。どこにでもありまです。それが聖人の味です。

『涅槃と神は同一である』というのは、マハトマ ガンディーの言葉です。仮定でない言い方では「ティッタタム(この目で見た幸福)」と言い、ルーパチャン(形禅定)とアルーパチャン(無形禅定)だけです。まだ煩悩を絶てなくても、する価値はあります。サマーディをしている時に聖人の味を味わえば、サマーディをすることに満足します。形、声、香、味、触よりも、味わうべきタンマの味と見なします。

 タンマの味はすべての味に勝る、というブッダの言葉があります。すべての味とは形、声、香、味、触のことです。タンマの味は根の味よりも素晴らしいという意味です。これだけでも興味深いです。そして実践することに確信を生じさせる味を作るべきです。

第2項 卓絶した透視力、聴力のため 

 こういうのは不思議で、凄くて、神秘的です。しかし私は欲しくないので、それについての話しはしません。カシナ(十遍処)やアーローカサンヤー、ティワーサンヤー(どちらも超能力のようなもの)から千里目や地獄耳まで、こういった種類のサマーディは物質的な利益を求める目的に使われがちです。正しい話なら、心の能力であり、頑なに人を苦しめることもある奇跡と捉えます。この種のサマーディは自分自身の敵です。

第3項 完璧な理性のため

 心に生じてくるいろんなもの、ヴェーダナー(受。感覚)、サンヤー(想。記憶)、ウィトック(考え)を、受がどのように生じ、どのように消滅するかを意識します。苦の受、苦でない受、苦でも幸でもない受の三種類がどのように生じ消滅するか、想蘊あるいは記憶がどのように生じるか、どのように衰えるか、良い考えと悪い考え、良くない考え、悪くない考えはどう生じどう消滅するかを、呼吸を追うのと同じように、考えを追います。

 そうしていると、常自覚は体から逃げ出しません。すべての体の動き、心の動きは、常自覚が消えないようにする訓練です。何でも深く考えられ、良く記憶できるようになります。道具であり、利益があります。考えがどう生じてどうなるか、サティだけではなく、人の考えが分かるようになります。

 「脹らんだ、萎んだ」(呼吸の出入りを腹の脹らみで感じる手法)の人は、受、想、考えを見てください。お腹が脹れるのと萎むのを見、脚を上げるのを見、そして小刻みに詳しくしていきます。食べるのを見、取って、持ち上げ、入れて、噛んで、いろいろな細かいことを見ます。勝手にしてもいいです。パーリ経典にはありません。

第4項 漏を絶つため

 執着でできている五蘊の発生と消滅を熟視することです。五蘊とは形、受、想、行、そして識、あるいは体と心のことです。俺のもの、という執着でいっぱいの体と心です。形、受、想、行、識への執着は、私たちを困らせる鬼や悪魔です。要するに無常であり苦であり無我である五蘊の崩壊を熟視し、執着しないようにします。

 これらのサマーディは、実践項目を停滞させないために、どこの団体がどの種のサマーディをしているか、どの種類が、ブッダの意図したとおり危険を脱することができる種類かを知る尺度になります。

 パーリ経典にある話です。大きな鳥、亀、蛇、狐、大トカゲを一匹ずつ捕えて、五種類の生き物をそれぞれ紐で繋いで、紐を一つにまとめて縛っておくと、それぞれ動き出します。大トカゲは水に入ろうとし、鳥は空へ飛び立とうとし、蛇は隙間へ入ろうとし、狐は墓地へ行こうとし、亀は池へ行こうとします。面白いかどうか、目を閉じて考えてみてください。力の強い一匹が力尽きてしまえば、力のあるのが引き戻し、交代で勝ったり負けたりするので、幸せはありません。

 望みどおりの餌を探しに行く目・耳・鼻・舌・体と同じです。目・耳・鼻・舌・体は一日に何回私たちを引っ張っているでしょう。いま形を求め、いま声を求め、いま味を求め、いま接触を求め、どうしたらじっとしていられるのでしょう。そわそわしないでじっとしていることとは、現世での幸福であり、神に到達します。目・耳・鼻・舌・体の威力に支配されません。

 

 「俺」と「俺の」に支配されないで、一休みできることを神に到達すると言います。アーナーパーナサティの第一部をしていると、呼吸が非常に少なくなって、「現在の幸福」と呼べるようになります。難しくはありません。必ず練習できます。アーナーパーナサティ第一部の定でも結果はあります。 

 手探りしていけば第二、第三、第四と順々に高い定が得られ、緻密になって粗雑さはどんどん剥がれ落ちます。最後には四段階目になり、残りは半分もありません。非常に静かで、妨害するものは何もありません。「ブッダの言葉によるブッダの伝記」の中に、牛車が五百台通っても何も聞こえない人がいたとあります。ブッダはもっとすごくて、近くで雷が鳴っても聞こえませんでした。

 

 禅定に入ると涅槃の味見という利益があります。しかし厳密なものではありません。ディッティタンマミッカスッカとは、自分で見たタンマの幸福という意味です。自分で見たタンマとは、タンマが見えてもまだ生きている、つまり自分で感じることができる現在の幸福という意味です。

 練習して結果を出すには、時間と強い意志と、本気であることが求められます。長く座っていると静かではいられないかもしれません。世界も自分も忘れて呼吸だけを見る練習をすれば、俺、俺のの毒はありません。

 脚を組んで座る(結跏趺坐)のは、初めは脚を組んで座ります。結跏趺坐は、自然に体を真っ直ぐにします。通常、人の呼吸は長くありません。できるだけ長い息をして、それから自然な長さに戻すと、長い短いが自然に分かります。

 どれくらい長い息、どれくらい短い息を意識するのか、初めはまだうまく調節できません。初めは鼻先から臍までの、どこでどのくらい長い息をするかという、二つの基点を設けるべきです。鼻と内部の臍の感覚を、できるだけ長く(最長で50−60秒)。息が長く力があれば、鼻を洗い肺を洗い、気道を洗うようなものです。体と血と皮膚を整えるために、まずこれをします。

 初めには心とタンマの両面の結果があります。調整できると、今まで経験したことのないような不思議な快さを感じます。中には最初の段階で、体が気持ち良くなる喜美に溺れてしまい、サマーディの第一部で満足してしまう人もいます。体が爽快なのは一時だけ、まだ第四部に届いていないのにそれでも多すぎます。

 他のものに求めることはできませんが、アーナーパーナサティなら求めることができます。心がすっきりして爽快になり、その不思議な味に飽きることはありません。どこでもできます。一銭の投資も必要はありません。他の徳を積むには資本が必用です。たとえば本堂を建立するには何十万も必用です。煩悩に妨害されない静けさを経験したことがないからです。

 

 正しくサマーディをすれば「俺」「俺の」がしばらく消滅するので、これを味わう方が素晴らしいです。細かく指示するアドバイスを頼りすぎないでください。機械になってしまいます。基本を知ったら一人で静かに座ります。教える言葉より多くを知ることができます。

 奇跡を求めれば狂います。ディッタタム(この目でみた幸福)の種のサマーディはそのような危険はありません。奇妙なものがあっても要りません。求めるのは鎮まることだけです。勤勉に実践して、勤勉に観察し、小さな問題は観察し、本当に手におえないことは質問します。このようにすれば危険はありません。

 狭い方の鼻で呼吸する練習をします。手で片方の鼻を穴を塞ぎ、もう片側で呼吸をします。両方をやってみると、両側が同じでないことを感じます。片方が狭いか詰まっていれば、掌で水を掬って吸い込み、何度も手鼻をかみます。怖がらなくても良いです。何ともありません。それを練習します。水を吸っては噴き出します。

 風邪の予防、治療にもなります。もし体が丈夫で気血が十分あり、鼻がよくて呼吸がよければアーナーパーナサティは難しくありません。心の軽快さという結果が得られれば、期待以上とします。本を読めば俊敏に良い考えが浮かびます。体が快調ですっきりしているので、仕事や考えることがたくさんできます。つまり能力が向上します。

 誰でもこれについて知り、是非実践するべきことではないでしょうか。年をとった人ならなおのこと良い機会、そして必用な時間と考えるべきです。しなければならない、あるいはタンマを受け取らなければならない段階が来たのですから。

 

 何歳になったら解脱するためのタンマに興味が出るのでしょう。パーリ経典には、白髪の初めの一本が出た時が、外の世界の幸福、そして世俗を越えたもの全般の利益を求める境目、特別の人間だけができることとあります。ブッダの言葉ではありません。その時代の人の習慣です。読んで分かるのは、無常、苦、無我は毎日のことで、理解できる人もいました。要するに穏やかな幸福を求めていました。

 どのような幸福を穏やかな幸福と呼ぶでしょうか。穏やかな幸福とは、笑うこともなく、泣くこともなく、嫌うことも怒ることも愛することもなく、何も欲しがらないことです。

 

 体を硬直させるサマーディの練習法を知っていて、望みどおりにできれば、それはサマーディあるいは一種の入定、つまり何らかの段階に止まっていることです。智慧とは関係ありません。ブッダより前の時代には、体を固くして祈祷したり、心の鍛錬をしたり、心の能力を最大限に探求する種類のサマーディがありました。

 (入定とはサマーディの力という意味です。入定であるサマーディはディッティ(片意地。自惚れ)の一種です)。しかしそのサマーディが漏を滅亡させなければ、誤ったサマーディであり、何かを得ることです。もし正しいサマーディなら放します。

 何も得ないで放らない、静かな状態のサマーディは(一つめのサマーディ)、形・味・香・声、そして触より高いのです。両方を知っていれば選ぶことができます。

 もし心がなかなか静まらないで、動揺して狂いそうになったら、このような幸福で解決できるので、知らないよりましです。これらについてたくさん勉強していれば、こういった問題のとき大いに役に立ちます。ブッダは、書くならばたくさん書きなさい、そうでなければ、まったく話してはいけない、まったく書いてもいけないと言っています。

 一つめ三つめ、四つめのサマーディは練習するべきですが、二つめは無用です。一つめと三つめは世俗的な意味でも良いです。いま述べたサマーディの幸福を求めるなら、家の外へ危険な幸福を求めに行きません。家の外に静かさはありません。だから大変な思いをして戸外をさ迷う必用はありません。

 危険であり散財であり、自分自身と他人に対する妨害、虐待です。サマーディをすれば穏やかな幸福があります。森の中でもどこでも良いです。そこは別世界で梵天界、素晴らしい世界です。(梵天とは素晴らしいという意味)

 

 ブッダは、『世界はどこにでも築くことができる』と言っています。そしてブッダの言葉によるブッダの伝記の中の四座の話で、つまり聖人、梵天、天人、人間、人の心のあり様という意味ですが、どこで座ったり寝たり、立ったり歩いたりしても在りように変わりはなく、その人の心には他のものは入って来ないとあります。もし心が罪ならば地獄です。絶妙なタンマは、人間それぞれに好きな世界を築かせます。

 木の根元に座って心を静めていれば、しばらくは低い梵天界です。

 「死んだら梵天界に到達できる」と、人々は遊び半分にデタラメを言います。ここで、ここに座っていてできないのに、死んでどうして心を梵天にする、つまり俗界より高いとされる梵天になることができるでしょうか。

 年の少ない人は小さな世界を見て、大混乱に満足しています。もっと知性を働かせなければなりません。そうすれば静かさに満足するようになります。十分に騒乱を経験しなければなりません。そうして騒乱に嫌けが射すと、ブレーキである静かさについて学ぶ気になります。節度を越えることがなくなり、あるいは減るので、学ばないよりはマシです。騒乱は粗いことでも、中間でも、微妙なものでも、すべて「俺」「俺の」から生じます。

 広すぎる善を心配は、微妙な騒動になる疑いが残り、期待を捨てること、自分を捨てて大梵天になる勇気がありません。

 粗雑な騒ぎは欲界、あるいはカーマーワチョン(欲のある所。四悪趣と人界と欲界六天の11種)から起こります。

 中程度の騒ぎは形界、あるいはルーパーワチョン(形のあるもの)から起こります。

 微妙な騒ぎは無形界、あるいはアルーパーワチョン(無形のもの)から起こります。

 私たちは騒乱が好きです。自分で求めて騒動に近づきます。何もなければ自分で騒ぎを引き起こします。これになりたい、あれになりたい。あれが欲しい、これが欲しい。向上したいからです。つぎの三種類があります。

  粗雑なもの       性的欲望      最も混乱する

  中程度のもの      出世欲       性的なものとは無関係

  微妙なもの       隠れた出世欲   形がないので隠れている

 私たちは何重にも敵がいます。この敵に勝ってもその敵がいて、その敵に勝ってもあの敵がいるので、すべてを追い払うことはできません。心は変わるので、高くなってもまた低くなります。

 だから修行は、法画に描かれた蛇の口中の蛙のように、必死にしなければなりません。蛙は蛇の口から逃れたいと、鹿は罠から逃れたいと、野生の鶏は籠から逃げたいと必死です。騒乱に勝つには、私たちもそれくらいの努力が必要です。

 しかし人は反対に、騒乱に進んで関わり、進んで一つの騒乱からもう一つの騒乱に移動します。自分自身をますます困窮させ、ますます苦しめることです。自分で罠にかかっているのですから、断つのは困難です。

 

 ヨーギーには自分自身の努力に関する譬えがあります。誰かに抱きかかえられて水に沈められたとき、助かるためにもがくのと同じだと言います。それくらい努力をすれば、苦を滅し、騒動を無くすことができます。

 ここに座っていると、水に沈む時はどんなか分からないので、自分で体験しなければなりません。想像で済ませないでください。誰かに水に沈めてもらって試してください。どれくらい必死になるか分かったら、俺をなくし、俺のをなくし、苦を滅亡させたい気持をそれくらい必死でしてください。

 苦や害を見ることが少なければ、実践する力も少ないです。小さなネズミが大虎を殺すくらいの気持で努力を続けなければなりません。「俺、俺の」は大虎くらい大きいので、知性と智慧を十分働かせ、非常に努力をしなければなりません。そうすればネズミも虎を殺すことができます。心の能力はネズミくらいですが、大切なことは気力と努力が智慧を増やし、正しい見解になることです。

 寝る前と朝目覚めた時に、これらの項目をする必用があると見るべきかどうか、必ず復習しましょう。

 

 なぜアーナーパーナサティをしなければならないのでしょうか。心で一つのものを見たいだけ長く注視するためにしなければなりません。普通では、常に知識を維持できません。だから本性の奥にある煩悩を順々に殺し、最終的に滅尽に到達するために、無常、苦、無我の知識が常に心にあるように知識を管理するために、アーナーパーナサティの練習をしなければなりません。

 ではどうしたら煩悩を殺すことができるでしょうか。

 成功するには知るだけではなく、必ず知ったように実践しなければなりません。猫の首に鈴をつけるのと同じで、知っているだけでは成功しません。鈴を猫の首に結ぶことができれば成功します。

 無常、苦、無我を明らかに知るために、これらの知識が明らかに心にあるよう、毎日毎月十分に長い時間、アーナーパーナサティの練習をします。心の自然はくるくるとよく変わり、非常に変化が速いので、新たに練習しなければなりません。世俗的な仕事をするにも、力、つまり熟練することができる、安定したサマーディのある心が要求されます。

 タンマの仕事なら尚更です。頭に浮かんだら、一呼吸ごとに無常、苦、無我を見る練習をします。それは難しいので、簡単なものから練習します。まず呼吸をしっかりと意識します。

 ほとんどの所は、第一部だけしか教えていないので、呼吸を意識するだけだと理解してしまいますが、本当のアーナーパーナサティは、意識したいと思うもの、何でも意識できなければなりません。

                      アーナーパーナサティ経

    第一部 カーヤーヌパッサナー(体を見る。身隋観)

 第1段階。長い呼気と吸気を意識して、どう長いかを知ります。

 第2段階。短い呼気と吸気を意識し、どう短いかを知ります。

 第3段階。長いとか短いとか規定せずに呼吸を意識し、全部がどのようかを知ります。

 第4段階。静まり滑らかになった呼吸がどのようかを意識します。

 この部はカーヤーヌパッサナー サティパターナです。

    第二部 ヴェーダーヌパッサナー(受を見る。受隋観)

 第1段階。 鎮ったことから生じる喜悦の感情を意識することを、サマーディから生じたサマーディの味であるヴェーダナー、受を意識すると言います。味わいである喜悦を意識します。よく習熟して、一呼吸ごとにしっかりと染み込むように意識します。

 第2段階。 歓喜につづいて生じる幸福の感覚を意識します。

 第3段階。 心が味わっていることを意識することです。この心は変調したものです。心が心を変調させたものを意識して、このように上手く変調させるのかと、一呼吸ごとに意識して感じます。

 第4段階。 心を変調させる受を意識し、それを抑制します。

    第三部 チッターヌパッサナー(心を見る。心隋観)

 第1段階。 心がどのようかを意識する。苦や混乱、貪欲、怒りなどを味わっている心はどのようかを知ります。

 第2段階。 心の状態を知ったら、それからタンマの喜悦をしょうじさせ、その喜悦が強くなっていくことを意識します。

 第3段階。 喜悦のときは心が非常に安定するので、その心の安定を意識します。

 「サマーヒトー」とは安定という意味です。安定とは静かにしていることではありません。ここでちょっと、誤解しないために割り込ませてください。「サマーヒトー ヤターブータ パチャーナーティ」とは真実を知ることができる状態に安定している心という意味です。

 心が静まれば何かが自然に分かると考えている人たちがいます。「サマーヒトー」とは何かをしたり知ったりするのにふさわしい安定という意味です。ただ静かに座っていることではありません。

 第4段階。 安定した心を更に鎮めます。鎮まった心を意識して、それはただ自然のもの、心はただそれだけのもの、(執着するべきものではない)と見ます。つまり自我が少なくなるのが見えます。最後には、心が実体のあるものに見えないで、ただの自然に見えます。心が自分であるという理解は途端に減ります。

 この時心は働ける状態にあります。頑固さがなくなり、「俺」という思い込みがなくなります。この段階で受は堪らないと、執着について学びます。つまりこれらのものは変化し、どこにも実体がないのが見え、受でも心でも、くるくる変っていくのが見えます。

第四部 タンマーヌパッサナー(タンマを見る。法隋観)

 第1段階。 体つまり呼吸、感情、心が不変でないことを見ます。アニッチャーヌパッシー(無常観)と言います。

 第2段階。 ヴィラーガーヌパッシー(離欲観)。倦怠し、世界のすべてのものに淡白になります。このようになったのを一呼吸ごとに意識します。これ以前はこのようにできません。他を見る必要はありません。体と受(ヴェーダナー)と心を見ます。第四部第1段階で無常を見ることによって、心がヴィラーガに傾きます。どこにも希望がないので、自然にヴィラーガ(離欲)に傾きます。

 第3段階。 ヴィラーガ(離欲)あるいは倦怠、欲望が弛むことから、心は滅尽へ傾いていきます。涅槃を愛させるために滅尽(ニローダ)を意識します。この第3段階をニローダヌパッシー(滅尽観)と呼びます。

 第4段階。パティニサッガーヌパッシー。心はパティニッサッガ(捨離)で成立しています。すべてのものへの執着を振り払うことです。

 

 この全四部が、非常に完璧な経であるアーナーパーナサティ経にある四念処です。アーナーパーナサティ経は、誰がアーナーパーナサティ経の教えを求めても、きっとこの経を教えたのだと思います。完璧な四念処であり、完璧な七覚支であり、完璧な解脱です。

 みなさんこの原則をしっかり理解してください。この方法を特別な道具に、性質を矯正できる方便に、分厚い随眠(潜在的な煩悩)を捨てられる道具にしなければなりません。

 もっと簡単に言えば、本当に一呼吸ごとにやれば、世俗にもタンマにも使え、良い考えがひらめき、記憶が良くなり、非常に理解が深まるということです。

                   アーナーパーナサティ経のまとめ

 第一部 四種類の状態の呼吸(カーヤ サンカーラ)を意識する。

 第二部 第一部の結果である四つの感情を意識する。

 第三部 心を四つの角度から意識する。

 第四部 タンマを最も重要な角度から意識する。つまりアニッチャーヌパッシー、ヴィラーガーヌパッシー、ニローダヌパッシー、そしてパティニサッガーヌパッシーです。

 これでタンマとは、愛欲や執着を取り入れる意味で正しい行為、良い行為、つまり世俗的なものを捨てることだと分かります。タンマは世俗的な行為とは正反対に捨てることで、捨てるべきものから先に捨てていきます。俗人は取り込むだけです。

 どうしたらこれを実践できるでしょうか。これらのものは捨てるべきだ、持っていてはいけないと教えなければならないという原則があります。世界の真実を多少知ることは、俗人の苦を減らし、喜んだり泣いたり笑ったりするのを減らします。

 こうなるだけでも良いことです。捨てるべきものを捨てることを知らないので、パティニッサッガを知らない、憐れむべき人です。つまりすべての欲しいもの、愛好するもの、満足するものは、本当には欲しがるべきでなく、愛好するべきでなく、満足するべきではないと、自覚していなければなりません。正しい状態で関わることを知ってください。

 愛や満足の棲家となっているものは、蛇であり魚ではないと知れば、関わりを止めることもできます。もし関わるなら最高に賢く、できるだけ安全に関わります。しかし苦がないようにすることはできません。

 

 『愛は悲しみで買うしかない』という言葉があります。

 体の快楽を求めれば、心の楽しみは消えます。反対に心の楽しみを求めれば、体の楽しみは消えます。

 どちらをどれだけ求めるかは、その人の智慧次第です。アニッチャーヌパッシー、ヴィラーガーヌパッシー、ニローダヌパッシー、そしてパティニサッカーヌパッシーの四つの知識が、何をどれだけ求めれば苦が減り、最後には嫌になって、蛇と遊びたくなくなるか教えてくれます。

 この方法を知っていれば、試験に何とか合格します。落第はしません。最高の涅槃の意味は一つですが、二つの方面で使われます。世俗的にもタンマ的にも。子供も大人もそれなりに知っておくべきです。

 

アーナーパーナサティ経の初めの三部は、ブッダが『この純潔は段階的に傾いていく』と言われたように、最後の部を知るために段階的に、涅槃に至るまで実践する行為の部です。(段階的な学習、行動、実践という意味です)。

 初めには何か一つを練習素材にしてしっかり練習します。道具の練習ではありませんが、練習のための道具です。練習は、時には何ヶ月も時間がかかります。暇な時間があればいつでもできます。ほんの少しの休憩の時でもするべきです。

 アーナーパーナサティで眠れば、心を妨害するもの、曇らすものがある時より爽快です。アーナーパーナサティをすれば、それらは消えてしまいます。疲れていると呼吸が詰まります。アーナーパーナサティをすれば洗い流して疲れを取ることができます。悲しんでいる人、疲れている人を観察して見てください。息が詰まっています。アーナーパーナサティをして洗い流すことができます。

 子供の遊び程度のアーナーパーナサティでも、疲労回復や心のリフレッシュには、かなり効果があります。狂わないように身体を管理するサティが生じて、呼吸がゆったりします。普通の「ゆったり」ではありません。ブッダの「ゆったり」です。

 第一部の呼吸は他の部の呼吸より簡単です。呼吸が滑らかになると幸福が生じます。第一部と第二部は誰でもできます。読んで良く理解してから練習すれば、自然に分かります。自然が教えます。仕事や車の運転と同じで、初めには読んで理解し、練習を始めれば自然に分かってきます。こうしなければ駄目、ああしなければ駄目と、練習自体が教えてくれます。このやり方にしたがって何ヶ月練習しても結構です。

 

 第一部の第1段階から第4段階まで、順に呼吸を滑らかにしていきます。それを意識できるだけで、心身の具合がよくなり、それまでより爽快で、心の調子も良く、頭が壊れにくくなります。

 

 第二部第1段階は喜悦、満足感で、それまで出合ったことのないものに出合い、それまで経験したことのない満足感を、しばらく味わいます。

 第2段階は、煩悩や蓋に妨害されない幸福を、どれだけ長く味わっても構いません。

 第3段階では心に考えを生じさせるのはこれだと知ります。つまりチッタサンカーラを意識し、心を変化させるものを意識して、このように心を変化させるのだ、喜悦、幸福、受が犯人だと、このように見ます。

 心を変調させ、善、不善、善でも不善でもないものを生じさせる犯人である、友人の中に隠れている敵を見ます。受には心を変化させる義務があることを見ます。この段階では「俺」をやっつけるために、態勢を見ます。

 第4段階では、心の変調がどのように治まるかを一呼吸ごとに見ます。この部もすごいです。

 第一部と第二部のテストをしてみて、できるだけ良く理解するよう努めます。

 

 第三部は心を見ることです。難しくありません。心はどんなか、形や表情を何通りに変えるか、全部見ます。他のところで細かく分類していますが、全部を知らなくても構いません。たとえば悲しい心、清々しい心、小さい心、大きい心、怒りや貪りのある心、賢いあるいは愚かな心など、このように一呼吸ごとに見ます。

 順番で言えば九番目、あるいは第三部は、いい加減にしないでください。使い物になりません。何をするにもゆっくりと綿密に、緻密で完全に、何事もいい加減にしないようにすれば、忍耐強い性質になります。その場しのぎでデタラメで、まとまりがないやり方は、役にはたちません。この部は四つの角度から心を見ます。

 第1段階。心はどのようかを見ます。

 第2段階。歓喜の心を見ます。歓喜を生じさせてからそれを見ます。

 第3段階。安定した心を見ます。

 第4段階。俺が減少して、鎮まった心を見ます。

 

 第四部、つまりタンマの部では、以前に使ったものをすべて投げ返します。ブッダはすべての部で、第4段階を目標にしたことが観察して分かります。初めにはどのような状態かを見、つぎにそれが何をするのか、全部見て、それから減少していくのを見るのは、とても良い logic です。

 身体の問題も、感情の問題も、心の問題もみな同じです。状態を見て、いろんな状態を見れば、それがどのようかが見え、それからどのように鎮まるかを見ます。これがブッダの煩悩攻撃法です。蛇使いが自分自身は怪我することなく、じゃれ合うように蛇を捕まえるように、良く相手の状況を読んでから正しく確実に捕らえる、賢い方法です。


ホームページへ                                           法話目次へ