心の訓練と心の働かせ方 

 念処の流れに従った実践法は精神的な行為を意味すると理解してください無常、苦、無我に関した自然の真実が、常に明確に見えるようになりたいと願うことが大切です。しかしまだ心を支配できないので、心は自分が見たいと思うように見たり、考えたりしようとしません。

 だからもう一度、もっと前の段階の練習をしなければなりません。心をしっかり支配する練習です。そのため四念処の訓練は二つの部分に分けられます。前半は心を支配するためで、後半はコントロールできる心で熟慮したい対象、つまり無常、苦、無我を熟慮するためです。

 最初の訓練である心を支配することを、サマーディ(三昧)または「サマタ」の訓練と言います。心を支配下におくことが出来るようになったら、その心で無常、苦、無我が明らかに見えるよう熟慮することを「ヴィパッサナー」と言います。サマーディとヴィパッサナーはそこが違います。

 サマーディの練習にもいろいろな方法がありますが、どれも効果があります。「プットー」、「オラハン」、あるいはその他の呪文を唱えてもいいです。あるいは何も唱えずにカシナ(十遍処で使う十種類の小道具)や死体、不浄物など外部のものを意識するのもいいです。あるいは呼吸のような内部のものを用いてもいいです。

 ですから、どの方法が良いとか間違っているとか、考えたり捉えたりしないでください。それは人それぞれに合っているのかも知れません。一番良いのはいろんな方法を試してみれば、自分に一番合った方法が見つかります。

 私が好きな方法はアーナーパーナサティ といって、課程のすべてを「アーナーパーナサティ バーヴァナー」と呼びます。集中力のためにする部分もアーナーパーナサティ 、智慧のためにする部分もアーナーパーナサティ、つまりどの部分もです。

 正式に集中力、あるいは「サマタ」のためにする部分は、呼吸を意識すること、感情を意識すること、心を意識することで、四念処の最初の三つの部分に他なりません。そしてタンマーヌ パッサナー サティパターンで智慧を熟慮するヴィパッサナーは最後、四番目です。

 初めの、呼吸を意識し呼吸を注視する段階を、カーヤーヌ パッサナー サティパターンと言います。呼吸も体の一部だからです。呼吸を意識する部分を四つに分けています。

  1.長い息を意識する

  2.短い息を意識する

  3.呼吸が体を変調させることを意識する。

  4.呼吸を滑らかにして、体が穏やかになることを意識する。

 最初の「長い息を意識する」とは、呼吸が長いということを観察するという意味です。長い息の時は体が気持ち良く、たとえば胸が詰まるようで気分が悪い時などは、呼吸が短くなっています。とても気分の良い時は呼吸がゆっくりと長いです。

 ですから呼吸を長くゆっくりにすることができるということは、体の調子を整えられる、ということになります。保健の面からいっても利益があります。健康になるのですから。

 一方短い息は、心が正常でない時は呼吸が早く短い、ということを熟知しなければなりません。イライラしている時は息が短いです。怒っている時は呼吸が早いです。性欲に囚われている時も息が短いです。ですから心が正常でなく体も気分が悪い時には、呼吸が早いということを知っておかなければなりません。

 どういう呼吸が長いか、どういう呼吸が短いか、なぜ長いか、なぜ短いか、長い息と短い息の両方を意識して知悉します。短い息をしている時に気づくことができれば、心を正常に戻すこともできます。呼吸をゆっくりにすることで解決することもできます。そうすれば長い息も短い息も、呼吸の自然な状態について知悉している人になります。

 この長い息は荒いこともあるので、静かで長い息にします。短い息が荒いこともあるので、できるだけ静かになるよう努めます。自在に制御できるようになれば、短い息も長い息も、呼吸について知識のある人と言います。

1.長い息を意識すること。長い息だけを見張り意識します。長いことだけを学びます。

2.短いことを学びます。どうして短いのか、どうしたら長くすることができるか。大切なことは、体を荒らしている短い息を静かで長い息に変えられる、という点です。

3.真実の一つ、呼吸が荒れている時は体も荒れている、呼吸が滑らかな時は体も穏やかだという真実を注視し意識します。呼吸が荒れている時は体も荒んで、体温も高く気分も悪い。呼吸が滑らかな時は体も穏やかで、体温も下がり気分も良いという、この自然の神秘が分かるまで、十分な時間をかけて、本気で学習しなければなりません。

 この項目は特に良く理解できるよう学ばなければなりません。でないと次の段階へ進むことができないからです。

4.体を知ること、つまり呼吸を静めることです。呼吸を念入りに意識することができるということは、体を静めることができるのと同じです。だから呼吸を静めることができる分だけ、体も静めることができるということを学びます。そしていろんな方法の中から一つを選んで、呼吸を静めることで体を楽にできるようになるまで、呼吸をより滑らかにしていきます。

 ずっと続けていくと、サマーディと呼べる状態、つまり体も穏やかで心も穏やかになります。これだけでも、サマーディから生じた穏やかな幸福を味わうことができます。非常に満足できる幸福の一つです。これだけで、呼吸を静めることができたサマーディ、あるいは静まったサマタと言います。これらの穏やかさを四段階に分けて、初禅、二禅、三禅、四禅と呼びます。

 練習の概要はこのようなものです。呼吸がどのようになっているかという呼吸の自然が分かったら、呼吸の練習の第1段階から始めます。つまりカーヤーヌ パッサナー サティパターンです。

 

                 第一部 体を見る(カーヤーヌパッサナー。身隋観)

 第1段階の呼吸に係わる心の訓練は、追いかけるという状態です。初めの状態である「追いかける」という言葉を憶えてください。息が出入りしたり移動している時、心または意識するサティが追いかけます。初めには意識しやすいように息を強くします。息が出たか入ったか、どこまで届いたか、どこまで出たかなどが観察しやすくなります。

 ですから内部と外部の二点で意識します。外部の点は鼻先で、内部の点は仮に臍とします。吸気は鼻先から始まって臍までで、呼気は臍から始まって鼻先までで、それらがどう違うかが分かります。反対になっています。

 しかしいずれにしても大切なことは、出たり入ったり、出たり入ったりしている呼吸を、心またはサティで追いかけることです。出たり入ったりしている息を追いかけます。ここで良く意識できなければ、もっと息を荒くすれば、どこまで息が到達したか、奥まで届いたか、出口まで出てきたかが分かりやすくなります。

 常に呼吸を追いかけているような状態であるこの段階は、子供を寝かせるためにゆりかごを揺すっている子守りに譬えられます。子供が寝ないうちは動き回りますから、左右に揺れる篭の動きを逐一見守っていなければなりません。

 追いかける状態と同じです。出たり入ったり、出たり入ったりしている呼吸を心で追いかけて意識します。先ず追いかけるというこの段階をしっかり習熟します。

第2段階。追いかけることができるようになったら、第2段階です。つまりもう追いかけないで、この段階にふさわしい一定の場所、鼻先で見張る段階に入ります。ここでは鼻先がもっともふさわしい場所です。ここで意識するだけで十分です。息を吸えば入るし、吐けば出るし、鼻先は必ず通過します。これを一ヶ所で見張ると言います。

 もう追いかけません。鼻先で意識します。これに習熟しなければなりません。まだ鼻先に達する前に心が他所へ逃げ出すかもしれないので、一段階むずかしくなります。しかし第1段階、追いかける段階が良くできれば、鼻先だけで意識する練習も難しくなくできます。

 うまく行かないようなら、もう一度追いかける段階に戻ってしっかりやり直してから、鼻先だけで意識する練習に入ります。どっちみち最後にはできるようになります。呼気であれ吸気であれ、息が鼻先を通過する時を意識します。息が鼻先に当たる一番端で意識します。この場合鼻先は徴(しるし。ニミッタ)です。この徴は呼吸でまだ直接繋がっていると言います。

 呼気も吸気も、鼻先から臍までずっと追いかける段階は徴です。全過程が徴です。しかし一ヶ所で見張る段階に入ると、徴が残っているのは意識する場所、つまり鼻先だけです。これからは通り途全部(つまり鼻先から臍の間)では意識しません。鼻先に当たる息、それが徴です。これを一ヶ所で意識すると言います。呼吸は徴として存在します。

第3段階。この段階に習熟したら、つづいて第3段階の練習に入ります。つまり徴を呼吸から概念(イマジネーション)に替えます。呼吸は自然にある現実のもので、概念ではありません。ここで概念に替えます。鼻先の息が当たる場所を概念という形で新たに作り替えます。

 わざと作ると言えば正しくはありません。本当に自然に作ると言っても違います。鼻先の息が当たる一つの場所を、概念としてイメージするのに近い、と言っておきましょう。鼻先の息の当たる場所は、呼吸が滑らかになれば体も緩やかになり、意識するものが繊細になれば、心が感じるのは半分だけ、半分感じるだけになります。

 感じるのが半分になれば、息が当たる部分がどんなかという何らかの概念、たとえばそこに綿毛が付いているというようにイメージするのは簡単です。その時は呼吸を意識しないで、新たにイメージした概念を意識します。

 時には綿毛の代わりに蜘蛛の糸でもいいです。あるいは露、蓮の葉におくような露でもいいです。星でもいいし太陽でも月でも、自分がイメージしたものなら何でもいいです。しかしイメージしやすいのは綿毛や光る水晶玉のような小さな物です。

 それが上手くできるようになったら、太陽や月のような大きなものに拡大し、それができるようになったら月や太陽をもっと大きく拡大してもいいし、小さく縮小してもいいです。

 それができるようになったら、心を支配することに成功したということです。そしてそこ(鼻先の息が当たる場所)にふらふら浮かんでいる太陽でも月でも、何でもイメージしたものを見ることができます。しかしそこまでする必要はありません。何かイメージした像であればそれで十分です。

 そしてイメージした像を自在に支配すること、つまり色を変えたり、形を変えたり、均整を変えたり、場所を変えたり、何でも変えることができます。いろんなことをやってみるのは、より心を支配できるようにするためです。しかし心をより繊細にするために、最終的には適度なところに戻ります。これを第3段階、つまり徴を自然の像からイメージした像に換えることに成功したと言います。

 念のためもう一度復習しましょう。最初の実践は追いかける、つまり出たり入ったり、出たり入ったりしている呼吸を徴として、息の流れのすべてを追いかけることです。

 それができるようになったら、鼻先に当たる息を徴として、一ヶ所つまり鼻先だけで意識するように変えます。

 それができるようになったら第3段階、息が当たる場所にイメージした徴、たとえば綿毛や水晶玉、あるいは説明したようなものを置きます。これを徴をイメージしたものに替えると言います。まとめます。

    第1段階、追いかける

    第2段階、一点だけで意識する

    第3段階、イメージした徴のあるところで意識する

 十分熟練して、本当に支配できるようになり、その段階のことは何でも意図したとおりにできるようになるまで習熟しなければなりません。イメージした徴を完璧に支配できるようになったら、次の段階の練習に進みます。

第4段階。少しずつ禅定という新しい感覚が作らてきます。しかしイメージした良い徴があればヴィタッカ(関心を維持すること。尋)、つまり徴を意識するという感情があります。その徴についての周到な感覚、つまりヴィチャーラ(熟慮。伺)と呼ぶ感情があります。徴がうまく作れれば、ヴィタッカ(尋)、ビチャーラ(伺)と呼ぶ禅定はすでにその行為の中にあります。

 まだ残っているのはピーティ(喜悦)とスッカ(幸福。楽)の感情を生じさせることです。この喜悦と幸福は成功することから簡単に生じます。人は成功したと感じれば喜悦が生じます。喜悦が生じることで幸福の感覚が生じます。喜悦があれば必ず幸福があるので、喜悦、幸福と呼ばれる禅定が生じます。

 その時の、心に一つのもの、つまり意識しているものしかない状態を、エッガガター(一境性)と呼びます。だからその時、ヴィタッカ(尋)、ヴィチャーラ(伺)(熟慮)、ピーティ(喜悦)、スッカ(幸福)、そして禅定の一つである初禅と呼ぶところのエッガガター(一境性)、そのすべてが揃います。

 みなさんは注意深くしっかり修行をしていかなければなりません。先へ進むのもいいですが、欲張って早く先へ進むことを考えてはいけません。練習に練習を重ね、修練に修練を積み、繰り返し繰り返しこれを続けてください。イメージした徴を意識することをヴィチャーラ(伺)と言います。

 喜悦を感じて心が満たされていれば、幸福を感じていれば、そのような状態には当然エッガガター(一境性)があります。つまり心は一つの感情、三昧状態になります。

 これは人間にとって不可能ではありません。時間さえ十分あれば普通の人でも訓練できます。たとえ最高地点に到達できなくても、全部揃ったと言えるところまでは行きます。まだ十分ではないにしても一応全部揃っています。全部が揃っていれば、あとで少しずつ習熟して、確かなものにしていけばいいです。

 本当に熟達すれば、物質に勝つ力を得たと言います。つまり自分に勝った、物質に勝った、それらを支配できるという意味です。それらに勝ったということは、呼吸などの対象と繋がっている心を支配できるということです。

 この初禅だけでも十分です。一般の人にとっては十分すぎるかも知れません。初禅のレベルに達しなくてもがっかりしないでください。これから先修行をしていくのに十分な集中力を身につけたのですから。初禅にあるものすべて、つまりヴィタッカ(尋)、ヴィチャーラ(伺)、ピーティ(喜)、スッカ(幸福。楽)、エッガガター(一境性)のすべてを習ったのですから、大きな徳、あるいは幸運と言えます。無駄ではありません。

     カーヤーヌパッサナー サティパターンの段階のまとめ

     長い息を意識する

     短い息を意識する

     呼吸が体を変調させることを意識する

     そして呼吸を支配することで心を支配する。呼吸を滑らかにして心を穏やかにし、体を緩やかに     する。そして禅定または初禅と呼ぶものが生じるまで習熟する。

 これを、四念処の第一部、カーヤーヌパッサナーサティパターン(身隋観念処)を修了したと言います。

 

             第二部  受、感覚を見る(ヴェーダーヌパッサナー。受隋観)

 第二部に入る前に、カーヤーヌパッサナー サティパターンの段階を十分熟練しなければなりません。意識が体にあるようにし、逃がさないようにします。つまりしっかり支配できるという意味です。そうなってから少し進んで第二部、ヴェーダーヌパッサナーに入ります。ヴェーダーヌパッサナーの部とカーヤーヌ パッサナーの部は繋がっていなければなりません。つまり三昧で生じさせた喜悦と幸福を感情(意識する対象)とします。

 ヴェーダーヌパッサナー サティパターンの練習をするには、三昧から生じる喜悦と幸福(ピーティとスッカ)を四念処第二部の感情、または徴とします。そうなるとまた初めからやり直さなければなりません。長いのを意識し、短いのを意識し、体への影響を意識し、変調を少なくして意識し、喜悦と幸福が生じるまで緻密に意識し、そして喜悦と幸福を、第二部で意識する感情として残しておかなければなりません。

 喜悦とはどんなものか、幸福とはどんなものかを意識します。つまり今まで以上に緻密に、喜悦とはどんなものか、どんな状態か、幸福とは何か、どんなものかを意識します。喜悦と幸福に関わる前に、喜悦と幸福がいま存在するということを、明らかに緻密に自覚し、この二つのものの自然を知り、生まれを知り、これに関して何もかも知ったと言えるようにすることです。

 

  ヴェーダーヌパッサナー サティパターンの部は

    第1段階は喜悦を意識します。できるようになったら、

  第2段階は幸福を意識します。できるようになったら、

  第3段階は感覚、つまり喜悦と幸福は心をいろいろ変調させる主犯で、チッタサンカーラ(心を作るもの)と言いますが、それを意識します。心を変調させる犯人は感情です。ここでは喜悦と幸福ですが、この感情がどのように心を変調させているか、心がどのように変調しているかを、この段階ではずっと意識します。

 この段階ができるようになったら、第4段階、つまり感情が勝手に心を変調させるのを妨害し、感情の影響を次第に少なくしていき、最後には感情が心を変調させようとしてもできないようにする練習をします。そして第二部第4段階の実践を成功させます。これをチッタサンカーラを鎮められたと言います。

  復習します。第二部、ヴェーダーヌパッサナーの部は、

 第1段階 喜悦を意識する。

 第2段階 幸福を意識する。

 第3段階 喜悦と幸福が心を変調させていることを意識する。

 第4段階 感情または喜悦と幸福が心を変調させるのを妨害し、最後にはまったく不可能にする。

 これは、人は心を変調させる原因を制御できるということです。感情は私たちの掌中にあります。これからは、自分で自分の心をどのようにでもできます。これをヴェーダーヌパッサナーサティパターン(受隋観念処)に成功した、つまりサティパターン第二部を終了したと言います。

 

                  第三部 心を見る(チッターヌパッサナー。心隋観)

 次にチッターヌパッサナーと呼ばれるサティパターンの実践に入ります。みなさん、実践は最初の段階からずっと繋がっていることを忘れてはいけません。どの部分も欠けてはなりません。必ずカーヤーヌ パッサナーから始めて、ヴェーダーヌパッサナーの最後の段階で、心を変調させる感情を制御し、変調を止ることができるようになりました。

 ここで変調させたりさせなかったり自由に制御されている心を、この段階のサティパターンの感情(対象)あるいは徴とします。

 第1項は、その時心はどんな状態か、欲望があるかないか、怒りがあるかないか、もっとすごい心があるか、もっとすごい心はないか、心は晴れ晴れしているか、落胆しているかなど、いろんな心のありようを意識します。心がどんな状態になっても、それを意識します。心のいろいろな状態を意識し続けていくと、最後には心の状態のすべてを知り尽します。これを心の状態を意識する第1項と言います。

 次は第2項です。このように心を支配できるようになったら、心を歓喜の状態にします。この歓喜というのも、同じ喜悦と幸福という意味です。しかしより上品で高尚で、禅定に依存しません。つまり喜悦と幸福は、心を即座に歓喜に変えることができます。第2項は心を自在に歓喜の状態にすることです。それができるようになったら第3項に進みます。

 第3項は、心を磐石にすることです。この磐石という言葉がすなわち真のサマーディです。完璧なサマーディ(三昧)というには、次に挙げる三つの特徴がなければなりません。純潔(ボリストー)が一つ、安定していること(サマーヒトー)が一つ、義務に対して俊敏であること(カンマニヨー)が一つです。

 ボリストーとは、純潔で清潔で蓋(がい)、妨害するものなどがないということを意味します。サマーヒトーとは、安定して確固として強く堅固なこと。そしてカンマニヨーとは己の義務に対して敏捷であることです。己の義務とは、いつでも、どんな状態でも評価検討したい時に評価検討することです。それを己の義務に対して敏捷と言います。

 心がこの三つの特徴を備えていれば、つまり純潔で堅固で義務に対して敏捷なら、ここでは「磐石な心」と言います。つまり心はヴィパッサナーの基礎にするための完璧なサマーディの状態にあります。

 次の第4項は、その時心を支配しているものから開放することです。その時心は何かに支配されています。物欲であったり、怒りであったり、迷いであったり、他の欲望であったり、たとえ恐怖、緊張、嫉妬、落胆などでも、その時心を妨害しているもの何でも、即座にそれを払いのける訓練をします。これを心を開放すると言い、第4項です。

 チッターヌパッサナー サティパターンの部をもう一度復習します。

 第1段階 その時心がどのような状態にあるかを意識します。 

 第2段階 心を歓喜の状態にします。

 第3段階 心を磐石にします。

 第4段階 心を覆っているものから開放します。

 考えてみてください。みなさんは、ここではもう心に熟達した専門家で、心を熟知し支配できます。このようにできるようになればアーナーパーナサティのチッターヌパッサナー サティパターンを修了したと言います。この三部全部を、つまりカーヤーヌパッサナー、ヴェーダーヌパッサナー、チッターヌパッサナーをこのように実践できれば、高度なサマタ(止業処)を修了したと言います。

 それではタンマーヌ パッサナー サティパターンと呼ばれるサティパターンの第四部に進みましょう。これが完璧なヴィパッサナーの段階です。

 

                  第四部 タンマを見る(タンマーヌパッサナー。法隋観)

 第1項 不確実なことを意識します。無常と呼ばれる不確実性がどのように存在しているか、その不確実なものの様々なありようについて熟慮熟考します。不確実なもののすべてについて熟慮します。それは自分の気持ちの中に実際にあるものでなければなりません。

 土くれや、石ころ、木の株や山など外部のものを、ただ熟慮するのではありません。それではここの内容としてふさわしくない、あるいは完璧ではありません。本当に自分の心にあるものの、不確実性を見るのでなければならなりません。

 そこでまた初めからやり直す必用があるわけです。長い息を意識して長い息の不確実性を考え、短い息をして短い息の不確実性を考え、呼吸が体を変調させることを考え、そして呼吸が体を変調させることの不確実であることを意識し、呼吸を支配して体を変調させないこと、つまり体が静まることを熟慮します。

 そして変調の過程と変調しない過程の両方、それらすべての不確実性を熟慮します。それらのどれも不確実性を見せているからです。

 次には感情を熟慮します。つまり喜悦の不確実性を考えます。幸福も不確実、心を変調させる喜悦と幸福も不確実、喜悦も幸福も心も、みんな不確実です。感情を支配して心を変調させないようにすることも、すべて不確実な様相を呈しています。つまりいつでも変化します。

 どんな場合にも変化しないで確実不変だったら、何も変化することができません。不確実だから変化できるのであり、私たちも望みどおりに変えることができます。

 次にチッターヌパッサナーの段階を熟慮します。心はどんな状態にあっても、不確実な様相をしています。心を歓喜で満たすことも不確実です。心を開放することも不確実です。これらは現前のことです。心の中に現実にあるものは結果が出ます。

 外部のものを、あれは不確実だ、これも不確実だと表面的に検討するのとは違います。現在内部に浮び上っているものの不確実性を熟慮すれば、深く無常が見え、倦怠が生じ、欲が減っていきます。あるいは憐れみが生じるかも知れません。

 以上のような理由から、不確実性、つまり無常を熟慮するには、すべて内部のものを用います。このように不確実性、つまり無常を熟慮し続けることが、タンマーヌパッサナー サティパターンの第1段階です。無常を熟慮できれば、自然に、ヴィラーガ(離欲)、つまり倦怠感、憐憫、それまで執着していたものへの欲望の弛緩が生じる段階になります。

 第2段階はヴィラーガ(離欲)です。欲望が弛んでいく様子がどのようか、執着が薄れてゆく様子はどのようかを熟慮します。これをヴィラーガ(離欲)、欲望の減少を熟慮すると言います。

 第3段階はニローダ(滅)です。欲望が段階的に減少していくと、滅あるいはニローダと呼ぶものが生じます。(ニローダとは、滅すること、苦が滅することを意味します。欲望が弛む、つまり執着が弛めば、苦もなくなります)。苦がどんどん減っていく様子、それがニローダの状態ですが、それを熟慮します。それが滅苦、完全な滅苦になります。

 最後の第4段階は、この滅がすべての苦を払い捨てたことを見ます。すべての苦を払い捨てること、パティニッサッガ(捨離)と言い、それを熟慮します。

 

 もう一度タンマーヌパッサナーサティパターンの部を復習します。

 第1段階はアニッチャーヌパッシー(無常隋観)と言い、すべてのものに顕れている無常の様相を注視します。

 第2段階はヴィラーガーヌパッシー(離欲隋観)と言い、心の執着が弛んでいくことを注視します。

 第3段階はニローダヌパッシー(滅隋観)と言い、苦が消滅していくことを注視します。

 そして第4段階はパティニッサッガーヌパッシー(捨離隋観)と言い、心が苦を振り払えることを見ます。

 言い方を変えれば、心は「俺が」「俺の」という気持ちを振り捨てることができた、と言います。純潔な心です。かつては俺が、俺のということに執着して来ました。自然のものを俺だ、俺のだとしてきたのですから、泥棒であり強盗でした。

 今は元の持ち主に、自然に返します。自然のものにします。これからは俺が、俺のということはありません。これをパティニッサッガーヌパッシーと言い、これで終わりです。

 アニッチャーヌパッシーの段階は、倦怠が生じて欲望が弛むというタンマを熟慮します。ヴィラーガーヌパッシーの倦怠と欲望の減少は聖向の状態です。欲望を減らして苦をなくすことができれば、それは聖果の状態です。このパティニッサッガーヌパッシーは涅槃の恒常的な様相です。つまりすべてのものを払い捨て、以後、俺が俺のという気持ちにさせるものが何もありません。ですからそれが修行の最終地点です。

 

 今までお話してきたことが良く分かるように、もう一度復習しましょう。

 第一部はカーヤーヌパッサナーと言って長い呼吸を意識し、短い呼吸を意識し、呼吸が体を変調させることを意識し、体への影響を制御できることを意識し、呼吸による体の変調を制御できることを意識します。

 ヴェーダーヌパッサナーでは、呼吸が体を変調させないように制御することから生じる、喜悦と幸福を対象とし、喜悦を意識し、幸福を意識し、喜悦と幸福が心を変調させることを意識し、喜悦と幸福が心を変調させないように制御できることを意識します。

 チッターヌパッサナーの部まできたら、心を歓喜させた様相、堅固にした様相、開放した様相を見ます。このような手法で心の扱い方に熟達したら、最後の実践項目に入ります。

 タンマーヌパッサナーでは、自分の支配下にある心で、執着していたものに興味が薄れて欲望がなくなるまで、生じている苦が消滅するまで、苦をすべて払い捨てたと実感できるまで、無常なものの無常について熟考します。

 これをアーナーパーナサティのそれぞれの段階のそれぞれの部分であるカンマターン(念処)と言います。一呼吸ごとにそれぞれの様相が明確に現れるようにしなければなりません。それをアーナーパーナサティと呼びます。

 長い呼吸の出入りを逐一意識する。

 短い呼吸の出入りを逐一意識する。

 呼吸が体を変調させて(あるいは作って)いることを一呼吸ごとに意識する。

 呼吸が体を変調させる(あるいは作る)のを阻止できるということを意識する。

 一呼吸ごとに喜悦があることを意識する。

 一呼吸ごとに幸福があることを意識する。

  一呼吸ごとに喜悦と幸福が心を変調させて(あるいは作って)いることを意識する。

 一呼吸ごとに感情が心を変調させる(あるいは作る)のを阻止できることを意識する。

 そして心のありよう、心はどんな様相かを一呼吸ごとに意識する。

 それから一呼吸ごとに作為的に心を歓喜で満たせることを見る。

 そして一呼吸ごとに心を堅固に安定させられることを見る。

 そして一呼吸ごとに心に絡みついているものを払い除けることを意識する。

 それから一呼吸ごとにすべてのものに顕れている不確実性を意識する。

 ヴィラーガ(離欲)が生じたら(淡白になってきたら)、一呼吸ごとにそのヴィラーガ(離欲)について熟考する。

 ニローダ(滅。苦が滅していくこと)が現れてきたら、一呼吸ごとにそのニローダを意識する。

 「俺が」「俺の」という気持をすべて払い捨てられたら、一呼吸ごとに払い捨てたことを意識する。

 一呼吸ごとに心を制御することから、この修行法は、初歩から最後までどの過程も、アーナーパーナサティと呼ばれます。アーナーパーナサティと呼ばれるカンマターンバーヴァナーは、私の好きな修行法なので、みなさんの智慧やサティにふさわしい練習を試していただき、検討していただくために披露しました。

 しかしあの方法より良いとか、この方法より悪いとか比較しないでください。そんなことは無用です。どの方法もみんな良いはずです。いろんな特質があって、人それぞれに合っていたり効果があります。

 しかしこのアーナーパーナサティ法は、私が特に好む手法なのでお話しました。そしてブッダも、簡便で大きな成果があり、功徳のある手法だと推奨しています。自分の中にあるものだけを観察の素材にするので、複雑で難しいことがないからです。

 どこに座っても呼吸はあり、どこに座っても熟慮できるからです。だから何も持って行く必用はありません。どこに座っても、どの木の根元に座っても呼吸は意識できます。

 こんなに便利で、そのうえ難儀な移動をする必要もないし、危険で恐ろしい情景に遭遇することもありません。死体を観るなどというのは恐ろしい情景に触れる経験です。手法が誤っていれば危険なこともあります。しかしこのアーナーパーナサティの修行にはそんな問題はありません。怖いこともありません。どの段階のどの部分も、終始一貫してあるのは静けさだけです。

 それゆえブッダは他の方法よりも推奨していました。ですからみなさんもこれを試してみてください。よい機会があったら段階的に練習を始めてください。今日は実際にやってみることはできません。今日は、あとで自分自身で試せるよう、とりあえず原則と全体の流れがどのようなものかを説明するだけです。そんな訳で、これで終わりにさせていただきます。

 

                             (1968年12月20日 スワンモークで開催された全国仏教協会の会合にて )


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